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【高校野球】「俺は甲子園に行かれへん男や...」大阪桐蔭・西谷浩一が"持ってない監督"だった頃 何度も閉ざされた聖地の扉 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Shiro Tanigami

 そして、約束の上では西谷にとって監督最後の夏となる2001年。「ナニワのカブレラ」の異名をとった中村を軸とする打線は凄まじい破壊力で大阪を勝ち上がり、ついに決勝へ進出する。

 上宮太子との決勝では初回に5点を奪われながら、土壇場で追いついた。しかし、エース岩田はその年の初めにI型糖尿病を発症。野手までマウンドへ送るなど、総動員でしのいできたが、延長11回、5対6と最後に力尽きた。

「これまでで一番練習したと思えるチームで、人間的にもいいヤツがそろっていた。でも、勝てない。これでもアカンのか、甲子園には届かんのか......と」

【なんでこんなに甲子園に嫌われるんや】

 西岡が主将となった秋も大阪大会で敗退。ここで長澤が監督に復帰し、西谷はコーチへ戻った。すると翌年夏、戦力的には決して高い評価を受けていなかったチームが、あれよ、あれよと勝ち上がり11年ぶりの甲子園出場を果たした。西谷にとっては、強烈な光景だった。

「あのチームは、僕が監督をやっていたら絶対に勝たせてやれなかった。僕ならチームの力が足りないと思う分、『よそが3時間なら5時間やろう』と、ひたすら練習させていたはずです。でも長澤さんは、選手たちを普段は放牧させているように見せて、締めるところでは締める。手綱をうまくさばいて、気がつけば選手たちがその気になっていた。あそこで11年間遠ざかっていた甲子園への重い扉が開いたんです」

 喜びはもちろんあったが、同時に自らの力不足を嫌というほど思い知らされた。ここから長澤監督の時代がしばらく続くかと思われた。しかし甲子園で初戦敗退すると、学校との話し合いのなかで長澤の退任が決まる。西谷が再び監督に戻ることになった。

「長澤さんが辞めるなら、僕も......」

 そう伝えた西谷に、長澤は「それは違う」と諭した。そして2002年秋、西谷は2度目の監督生活をスタートさせる。

 監督復帰後初めて迎えた2003年夏は、PLに敗れて5回戦敗退。しかし、1年生の平田良介が4番に座った秋は近畿大会を制覇し、神宮大会でも準優勝。翌春の選抜出場は確実だった。

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