【高校野球】「俺は甲子園に行かれへん男や...」大阪桐蔭・西谷浩一が"持ってない監督"だった頃 何度も閉ざされた聖地の扉 (3ページ目)
しかし翌日の準決勝、下馬評では優位と見られていた履正社に1対2で競り負けた。この夏、履正社は初の甲子園出場を果たす。
さらに翌1998年。記念大会で大阪が南北に分かれ、代表校が2校となった。PLともブロックが分かれ、西谷たちは北大阪で選抜準優勝の関大一をターゲットに定めた。ところが、その関大一と対戦する直前の3回戦で、金光第一(現・金光大阪)に敗れた。
6年間のコーチ時代、大阪桐蔭は一度も甲子園に届かなかった。そして1998年秋、西谷は29歳で監督に就任することになる。
【中村剛也、岩田稔を擁しても届かなかった聖地】
それは校長からの突然の通達だった。西谷を大阪桐蔭へ誘った長澤について、校長からは「いったん相談役のような形でチームの外から野球を見てもらう」と説明された。同時に、西谷が結果を残しても1年後には長澤を監督に戻すという話だった。年上のコーチ、有友茂史(現・部長)もいるなかで複雑な思いはあったが、長澤本人に相談したうえで就任を受諾した。
しかし監督として初めて挑んだ1999年夏は、履正社に初戦敗退(2回戦)。秋が近づくと、西谷は「いつ交代になるのか」と校長のもとへ確認に向かった。すると、思わぬ答えが返ってきた。
「今、野球部がいい感じになっているように見える。あと2年やってくれ」
夏の結果とは別に、教員である西谷が監督になったことで、選手たちの学校生活にも落ち着きが出てきた。学校側は、そんな変化も感じとっていたようだった。監督続投は2年間。ただし、この時も「甲子園に行ったとしても、あと2年で長澤を戻す」と念を押され、西谷は「もちろんです」と即答した。
2000年秋、エースの岩田稔、4番の中村剛也が2年生、西岡剛が1年生ながら遊撃を守ったチームはPLを破り、大阪大会準優勝。近畿大会でもベスト8へ進んだ。近畿地区の選抜出場枠は6校。戦いぶりから見ても、通常なら選抜出場の可能性は十分にあった。ところが、この年は大阪のほかの2校、関西創価と浪速がそろって近畿大会ベスト4入り。大阪から3校目となる大阪桐蔭は選ばれなかった。またしても、甲子園が逃げていった。
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