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【高校野球】「俺は甲子園に行かれへん男や...」大阪桐蔭・西谷浩一が"持ってない監督"だった頃 何度も閉ざされた聖地の扉 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Shiro Tanigami

【西谷の前に立ちはだかった巨大な壁】

 1993年春、晴れて大阪桐蔭のコーチとなった西谷が足を踏み入れた大阪の高校野球界は、「まだまだPL、PLの時代でした」と振り返る。なによりPLの巨大な壁を感じたのが、選手集めだった。

「『コイツや!』と思った選手を見つけて、チームに何度も足を運んで誠意を見せたら来てくれると思っていたんです。でも、『見つけた!』と思ってチームの人にあいさつに行くと、ことごとく『PLに決まっています』と。もちろんPL以外にも上宮、近大附、県外の学校......と競争相手は多かった。いい選手を見つけさえすれば、あとは鍛えればいいと思っていたのが、そこまでいかない。まず、そこに気づかされたんです」

 厳しい現実を突きつけられたコーチ生活のスタートだった。コーチ就任1年目の1993年夏は、阪南大高に敗れて初戦敗退(2回戦)。94年はPL学園、95年は上宮に、ともに4回戦で敗れた。96年は準決勝まで勝ち上がったものの、再びPLに屈した。

「甘くはない。勝てなかったですね」

 宿敵PLに夏の大阪大会で初めて勝ったのは、1997年の準々決勝だった。大乱打戦の末、最後はサヨナラ本塁打。劇的な決着だった。すると試合後、新聞記者が西谷のもとへやってきた。

「中村(順司)監督が呼んでいます」

 それまで中村とはほとんど言葉を交わしたことがない。呼ばれる理由に心当たりもなかった。「勝って、はしゃぎすぎたから怒られるんかな......」と、そんなことを考えながら急いで向かうと、中村は柔らかな表情で思いもよらない言葉をかけた。

「こういう試合を勝った次が、うまくいかんことが多いんや。今日は寮に帰って、選手全員を集めて引き締めなアカンぞ。それは監督の仕事じゃなく、コーチの仕事や。しっかり君がやって、頑張って甲子園に行けよ」

 西谷は衝撃を受けた。

「負けた直後に、そんな言葉をかけてもらって。なんて器の大きい人なんだと感動しました。それと同時に、『絶対あと2つ勝って甲子園に行く!』と思ったんですけど......」

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