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大阪桐蔭ナインに「悪役」のレッテル。夏の大阪初制覇も前代未聞の事態になりそうだった (2ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Sankei Visual

 1991年夏の大阪大会。大阪桐蔭は3回戦で"宿敵"北陽(現・関大北陽)に競り勝った。だからといって、次の試合からチームの本領が発揮されたかといえば、そうではなかった。

 4回戦の羽曳野には12対2の6回コールドで圧倒したが、5回戦の三国丘には2対0と苦しいゲームを乗り切った。試合こそ勝利するものの、勢いに乗り切れない。その原因を玉山が語る。

「萩原にホームランが出てなかったんです。ヒットは出るけど打球が上がらない。そのなかで井上がホームランを打ったり、しっかりカバーしてくれたので打線は機能していたんですけど。僕は『萩原に(ホームランが)出ないと、チームが乗っていかない』と思っていました」

 事実、萩原は大阪大会が始まってからしばらくは違和感を抱えながら打席に入っていたという。

「バッティングフォームを変えたというのもあったんです。新しい感覚をつかみ切れないまま大会に入ってしまって......。相手に警戒されてまともに勝負されないなか、『結果を出さな』ってもがいていました。もうホンマ、みんなに助けてもらいました」

 それまでの萩原のフォームは「ボールを上から叩く」という、いわゆるダウンスイングに近い形だった。センバツ出場を決めた1990年秋の時点で46本塁打をマークするスラッガーではあったが、高卒からプロを目指す以上、レベルアップは不可欠だった。

 その萩原をさらに刺激したのが、渋谷(しぶたに)高校の中村紀洋だった。中村は1990年夏に2年生の4番として甲子園を経験し、萩原とは1991年1月のオーストラリア遠征に大阪選抜メンバーとしてともに戦った。そんな中村について、萩原はこう回想する。

「個人の力としては群を抜いていました。オーストラリアの試合では、毎日ピッチャーやって、ホームランも打つんです。ほんま、ひとりで野球をやっているような、それくらい目立っていました」

 中村の存在が萩原の気持ちを駆り立て、よりレベルアップを図るため、センバツ後に打撃フォーム改造に着手した。

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