大阪桐蔭、チーム崩壊の危機。ナインの鼻をへし折ったセンバツの敗戦 (3ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Nikkan sports

 ひとりは、大阪桐蔭の「1番打者」としてチームの得点源となっていた澤村である。新チーム始動から秋の近畿大会まで、練習試合を含め5割近い打率を誇っていた不動のリードオフマンが不振に陥った原因は、じつはバットだった。

「この年(1991年)の春から、消音バットが導入されるようになって、今まで使っていたものが使えなくなったんです。それに新しいバットも消音になったばかりで、種類が少なくて......。『どれも合わん。バランス悪いわぁ』って思いながら、結局、甲子園でも打てなくてね」

 打者にとって"体の一部"ともいえる相棒を失った代償は大きく、センバツでは初戦の内野安打1本のみに終わった。だが、それ以上に澤村にとっての悔恨は、松商学園戦での不甲斐ない結果だった。

「『オレら優勝やん!』って思っていたところで松商にやられて。しかも自分、最後のバッターやったんです。打たれへんで負けたんが悔しくて、歯がゆくて......」

 試合後、寮に戻った澤村は自室で泣いた。野球人生で初めての屈辱だった。

<全国制覇 絶対にする!>

 失意をかき消すかのように力強く紙に書き、寮の部屋に貼った。

 だが、そんな思いとは裏腹に、調子は一向に上がらない。オープンスタンスから大きく足を上げ、鋭くバットを振り抜く本来の打撃フォームがどこかぎこちない。澤村が目の色を変えてバットを振り込む姿を見続けてきた元谷が証言する。

「『(澤村)通が打てんかっても、オレが打つから任せとけ』とか言ってましたけど、センバツが終わってからの澤村はおかしかった。あいつは器用でバットコントロールもいいし、力もあるから無心でバットを振ればええのに......。あの時期は気負いすぎていたんでしょうね」

 大スランプの澤村とは対極に、センバツで絶好調だったがゆえに気負いすぎてしまったのが「背番号1」の和田だった。

 仙台育英戦でのノーヒット・ノーランが象徴するように、センバツでは3試合20イニングを投げ、防御率0.45。ストレートの球速も145キロに迫るほどだったこともあり、「欲が出た」と、和田は自らを客観視して分析する。

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