「史上最悪の大誤審」が930万再生回数。当事者が明かす大荒れ試合までの記憶 (3ページ目)
だが、誰もがケンカに明け暮れていたかといえば、違うと国府田さんは力説する。
「大きなケンカ沙汰を起こせば、野球部が出場停止になってしまう。野球部じゃない生徒もそれはわかっていたので、『迷惑をかけないようにしよう』という連帯感があったような気がします」
国府田さんが川口工業を進学先に選んだのは、中学の2学年上の先輩がエースとして甲子園に出場し、憧れを抱いたからだった。だが、中学3年時には強豪・上尾の野本喜一郎監督から熱心な勧誘を受け、上尾の練習にも参加している。
当時、投手だった国府田さんの隣で投球練習をしたのが、同じく中学3年生だった仁村健司さん。薫さん(元巨人ほか)、徹さん(元中日ほか)との「仁村三兄弟」の三男だった。
しかし国府田さんはスター選手が揃う上尾ではなく、川口工業への進学を決める。「カワコウのほうが甲子園に近い」と見ていたからだ。
ところが、上尾は1979年夏、1980年春に甲子園出場と躍進する。国府田さんは父から「お前も上尾に行っておけば甲子園に行けたのに......」と嘆かれるたびに猛反発し、よく親子ゲンカをしていたという。
――上尾にだけは、絶対に負けたくない。
そんな鬱憤をため込んだまま、国府田さんは高校最後の夏を迎える。そして埼玉大会準決勝で宿敵・上尾と対戦したのだった。
動画サイトにアップロードされたのは、実は決勝戦の熊谷商業戦だけでなく、準決勝の上尾戦もある。熊谷商業戦の誤審ばかりが注目を浴びるが、もし現代の高校野球で上尾戦のような試合があったら、間違いなく大炎上するような案件である。
「あの試合はやりすぎました」
申し訳なさそうな表情を浮かべて、国府田さんは当時を振り返り始めた。
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