智辯和歌山・高嶋元監督の壮絶秘話。「くそったれ!」精神で築いた甲子園68勝 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

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 高嶋の持ち足は打撃と足。「6番・レフト」の座をつかんだ2年夏に初めて甲子園の土を踏む。そして開会式で味わった感動が、高嶋の人生を決定づけた。満員のスタンドをバックに入場行進が始まると、緊張で足が震えたが、感動で心も震えた。高嶋は「来年もまた来る。将来も指導者になってここに来る」と心に誓った。

 ただ、この時は記念大会で出場校が多かったため、海星の試合は西宮球場で開催。甲子園でプレーすることなく初戦で敗れた(埼玉の大宮に1対7)。

「1番・センター」として戻ってきた翌年夏は、甲子園でプレーし、ヒットも記録。しかし、高嶋にその記憶はなく、覚えているのは白球を追ってひたすら外野を走り回っていたことだけ。早鞆(山口)に2対10と大敗し、2年続けて初戦敗退となった。

 高校卒業後は福江島に戻った。すぐに大学進学するには経済的に厳しく、浪人を選択。ただ、浪人といっても勉強のためではなく、大学資金の足しをつくるため。日中は郵便配達員など、ひたすらアルバイトに励み、夕方からは五島高校野球部の手伝いをしながら、大学でのプレーに備えた。

 翌年、晴れて日体大に合格。1年春からレギュラーになり、先輩からのしごきもきつかったが、「高校の時の10分の1」と楽々クリア。4年時にはキャプテンを務め、教員免許も取得。無事卒業となり、新任教師として赴任したのが、縁もゆかりもない奈良の智辯学園だった。

 日体大野球部監督の上平雅史と智辯学園野球部監督の和泉健守は、高校、大学の先輩後輩の関係で、和泉が野球部を手伝ってくれる人材を探している最中、上平から高嶋を推薦された。

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