ロッテ種市の元ライバル・八戸学院大の中道佑哉が屈辱を糧に急成長! (2ページ目)
東京から八戸に帰るバスのなかでも、ずっと気持ちは沈んだままだった。
「あの時、ああしていれば......」
試合を振り返っては、何度も後悔した。だが、今さら結果が覆るわけではない。
「そこでようやく『もう終わったことなんで、そればかり考えてもダメだ』って思えたんです。次があるから、そこをどうすればいいのかって」
中道の出身は青森県十和田市。小・中学校時代は同じ十和田地区で育った種市篤暉(ロッテ)と事あるごとに対戦。地区大会決勝では必ずといっていいほど顔を合わせるライバルだった。
「小学校の時から(種市)篤暉は周りと違うなって感じでした。才能があって、それが高校(八戸工大一高)に進んでさらに伸びた。いまプロ野球で活躍しているのを見て、『やっぱすごいなぁ』って思います。自分はライバル心を持っていたので、早く近づきたいなと思います」
高校は八戸学院野辺地西(以後、野辺地西)に進んだ。十和田市の市街地にある自宅から少々距離はあったが、野辺地西の関係者が早くから声をかけてくれたこともあって、進学を決めた。
全校生徒が約200人の小さな学校である。野球部とで例外ではなかった。中道が入学した時、上級生部員は数えるほどしかおらず、人集めに苦労した当時の監督の姿が思い浮かぶ。結局、3学年合わせても15人程度の小さな所帯の野球部だった。
中学時代の実績を買われ、中道は高校1年から背番号「1」を託された。しかし、早々に腰を痛めてしまい、次第にフォームもバラつくようになり、試合で結果を残せない苦しい日々。気がつけば背番号は「11」になり、気持ちは折れかかっていた。
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