公式戦0勝のドラフト1位候補。
メジャースカウトも絶賛のポテンシャル (2ページ目)
それでも梅津は「当時は(東都大学リーグの)2部でしたけど、選手も監督もすごいですし、強いところでやりたかった」と振り返るように、意志は頑なだった。
また「夏の大会が悔しすぎて、ずっと練習していたので自信があったんです」と話すように、東洋大のセレクションで圧巻の投球を披露。
それは同じブルペンで投げていた同じく今秋のドラフト1位候補の上茶谷大河(かみちゃたに・たいが)が「(梅津に勝つのは)絶対無理や」と感じたほどで、高橋昭雄監督(当時)も「ストレートに自信を持てよ」と声をかけるなど高い評価を受け、1年春から先発を任された。
しかし、歯車は徐々に狂っていく。投内連携などノックの多さや1つのミスに厳しい雰囲気が重荷になり、守備に自信のなかった梅津はキャッチボールから球が抜けるようになり、打者と勝負するどころではなくなっていった。
「腐りそうになったり、めげそうなったりした時は、いくらでもありました」と振り返る。そんな時、父の言葉に励まされた。2年夏のある日、退部を考えていることを打ち明けると「じゃあ、やめろよ。俳優にでもなるか?」と明るく答えてくれた。
止められるとばかり思っていた梅津に、高校最後の夏の日の記憶が蘇った。
「甲子園に行けなかったことを謝った時に泣かせてしまった顔を思い出しました。父も悔しかっただろうし『負けたくて負けたんじゃないから』と言いながらも堪えきれず泣いていて......辞める、辞めないは結構考えましたが、『いつかまた投げられるんじゃないか』という気持ちになりました」
また、何者でもなかった小さな自分に「プロ野球選手になれる」と声をかけてくれた須江の言葉も思い返し、なんとか踏みとどまった。
3年になると徐々に感覚を取り戻していく。紅白戦やシート打撃など実戦形式の練習に投手として参加するようになった。並行してトレーニングを続けていくと、夏に球速150キロを計測。「1年前、野球ができるかできないかで悩んでいたヤツが150キロ出るなんて、『やればできるんだな』って思いました」としみじみ話す。
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