U-12仁志監督が伝える木内イズム。「サインに縛られず考えるクセを」 (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • 市川光治(光スタジオ)●写真 photo by Ichikawa Mitsuharu(Hikaru Studio)

 送りバントのサインが出ていても、内野が前に出てきたと思えば、選手の判断で打って出る。これが木内野球の真髄だった。仁志はこう続けた。

「木内さんって、よくしゃべるし、口も悪い(笑)。でも、野球に対する勘はすごいと思いましたし、選手たちに考えさせるやり方のできる監督でしたね。選手たちが監督の要求していることを予測して先回りしないと、監督の考えていることについていけないんです。予想もしないサインが出て、ここでこのサインが出ているということは、監督は何を要求しているのかなって考える。その要求に応えるプレーは1つじゃない。選手はより成功率の高いプレーを選択していい、というのが木内さんの野球でした。

 高校野球って、ほとんどのチームは監督に言われたことをやる、ということが正しくて、考えて意見を持つことは歓迎されないじゃないですか。高校だけじゃなくプロも含めて、野球界全体にそういう風潮があります。でも僕は、それは違うんじゃないかと、ずっと思っていました。高校で木内さんに考える野球を教わったから、そう考えるようになったのかもしれません。それを木内さんがどこまで計算してやっていたのかは、未だにわからないんですけど(苦笑)」

 実際、仁志は自分の判断でプレーした結果、甲子園を沸かせたことがある。

 1987年夏、常総学院は甲子園の決勝でPL学園と対戦した。この年、立浪和義、片岡篤史、野村弘、橋本清らを擁して春のセンバツを制したPL学園は、当時、史上4校目の春夏連覇へ、あと1つというところまで迫っていた。

 一方、常総学院の仁志は1年生ながらショートのレギュラーとして全試合に出場。準々決勝の中京戦ではランニングホームランを放つなど目立った活躍を見せて、決勝では3番を任されていた。

 PL学園は立ち上がりから優位に試合を進め、5-2と3点をリードして迎えた9回裏。常総学院の攻撃はノーアウト1塁で、バッターは仁志。木内監督から出たサインは"セーフティバント"だった。仁志はこう振り返った。

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