あのプロ野球「盗塁王」が、給料ゼロで米独立リーグコーチになる事情 (2ページ目)
茨城の名門・取手二で甲子園出場を果たし、東洋大学では全日本大学選手権で準優勝。大学卒業後は社会人の名門・日産自動車(現在は廃部)に進み、都市対抗を制し、日本代表にも選ばれるなど輝かしい球歴を誇った。
野球ファンに知られているのは、阪神に入団後(1985年ドラフト5位)に"少年隊"のひとりとしてブレイクしてからのことだろう。
88年に就任した村山実監督は、大野をはじめ、売り出し中だった和田豊、中野佐資(さとる)の3人を、当時のトップアイドルグループになぞらえて"少年隊"と命名した。
この年、大野は130試合に出場するなどレギュラーポジションをつかむと、翌年には3割をマーク。福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)に移籍した91年には盗塁王に輝いた。しかし、この年が選手生活のピークで、中日に移籍した95年限りで現役を引退する。
引退後は中日の二軍コーチを務めるが、2シーズンで契約を解除。職を失い、途方に暮れていたところに、古巣・阪神の元コーチから「1年待てば......」という条件付きで指導者の打診を受けた。だが、これもフタを開けてみれば監督人事が変わってしまい、結局話は流れてしまった。
なす術(すべ)なく、出身大学に足を運んだ大野を待っていたのは、付属高校である東洋大牛久高校の野球部監督の話だった。
しかし、当時は元プロの人間が高校野球の指導者になるには教員になる必要があった。聞けば、学校側は「野球部を引き受けてくれる教員」を求めており、大野が教員免許を取得するまで待ってくれるという。その言葉に一念発起した。大野は大学に再入学し、教員免許を取得。規則に従い、2年間の教職期間を経て、2003年に晴れて高校野球の監督となった。
「それまでは学校にいても、野球部の指導は一切禁止。でもまあ、選手とは授業で接するんですけどね。"総合的な学習の時間"というのがあって、そこでは野球の話ばかりしていました」
野球部の監督になると、当然のことながら甲子園を目指した。しかし、このことが大野を職員室で孤立させてしまう。
「もう学校では1人対120人みたいな感じでした」
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