73歳と75歳の超ベテラン監督が語る「甲子園で指揮をとる幸せ」 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 東邦は戦前の1934年、39年、41年とセンバツ優勝を果たすなど、全国屈指の強豪校だったが、夏は勝てなかった。なにより、中京に勝てなかった。

「こっちはブリキ集団。向こう(中京)はステンレス軍団」

 自らそう例えたエリート集団を倒すためには、絶対的な練習量を積むしかない......それしか思い浮かばなかった。

「オレたちはこれだけやったんだと、自信を持てる練習量。それは選手だけでなく、右も左もわからないなかで監督になった私も同じ。信じられるものがほしかった」

 休日はなく、4キロにおよぶうさぎ跳びや、時間を忘れてのランニングなど、想像を絶する猛練習の日々。鉄拳や怒号が飛び交うグラウンドで"鬼の阪口"となり、強い東邦が築かれていった。

 打倒・中京の思いが結実したのが就任3年目(1969年)の夏。県大会準決勝で平均身長167.8センチのブリキ集団が、まさかの一発で逆転サヨナラ勝ち。決勝も勝利し、阪口監督となって初めての甲子園を決めると、その年から愛知の夏を3年連続で制した。

 1977年の夏は、1年生エース"バンビ"こと坂本圭一の好投で全国準優勝。80年代になってからは愛工大名電、享栄も加わり"愛知4強"のなかでしのぎを削った。その後、1988年のセンバツでも準優勝、1989年のセンバツで優勝を飾るなど、実績を積んでいった。

 そして2005年に38年過ごした東邦を離れ、岐阜の大垣日大に戦いの場を移す。すぐさま2007年春に希望枠で同校初の甲子園出場を果たすと、この夏も含め通算7度出場。瞬く間に常連校へと導いた。

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