【高校野球】愛知の高校野球界を支える「私学4強」 (4ページ目)
常滑北と甲子園の間に立ちはだかっていたのは、私学4強ではなかった。そのずっと手前、知多半島の高校に負けないということが目標だった。浅尾も口では「甲子園」と言っていたものの、当時、それは現実的な目標ではなかったのだという。
「甲子園ですか? それは、言うのはタダなので、口にはしてましたね。まず無理でしょうけど……それこそ、大統領になるぐらいの勢いというか、それぐらい無理なことだと思っていたので……」
知多半島の中では知られた存在であっても、浅尾は愛知県の中でさえ、その名を轟かせたわけではなかった。ここぞという場面で暴投したり、カッとなってムキになったりした結果、ピッチャーに転向していた浅尾は3回戦で岡崎城西に敗れて、最後の夏を終えた。私学4強と対戦することもできず──。
谷奥さんはこう言った。
「さして強くもない高校だと、失うものがありませんからね。挑戦するプレッシャーはあるだろうけど、私学4強と言われているところは常に落とされたり上がったり、そういうピリピリしたムードの中でやってると思いますが、浅尾の育ったところはそうではなかった。それがよかったんじゃないかと思います」
精神的には遥か彼方だった甲子園。確かに高校時代の浅尾がいた場所は甲子園にはつながっていなかったが、プロという世界にはつながっていた。高校を卒業後、愛知県の日本福祉大学に進学した浅尾は、ピッチャーとして次第に頭角を現す。愛知大学リーグの2部でノーヒットノーランを達成し、やがてはチームを1部に昇格させた。大学4年の秋には自己最速の152キロを投げ、ついに中日に入団。セットアッパーとして活躍、去年はリーグMVPにまで輝いた。浅尾はこう言った。
「一回、野球を辞めようと思ったことがあったんです。『野球を辞めて、遊びたい』って谷奥先生に話しました。でも先生は『お前から野球を取ったら何も残らない』と言ってくれて、何とか続けさせる方向に持っていってくれたんです。僕は、常滑北にいたから野球を続けられているようなもので、もし強い高校にいたらとっくに野球部は辞めていたと思います。プロに入っちゃえば、みんな同じ舞台ですし、強豪校だろうが弱小校だろうが、結果を出したほうが上がれる世界なので、僕は甲子園には無縁でしたけど、常滑北で本当によかったと思っています」
今シーズン、浅尾は体調も調子も万全からは程遠い状態で、交流戦前に戦列を離れ、今もなお、二軍で暑い夏を過ごしている。浅尾を欠いても、上位に踏みとどまるドラゴンズにとって、秋口の勝負時、浅尾の復活は欠かせない。その時を見据えて浅尾は今、牙を研いでいる。
著者プロフィール
石田雄太 (いしだ・ゆうた)
1964年、愛知県生まれ。青山学院大学卒業後、NHKに入局し、92年からフリーに。『イチローイズム』(集英社)など、多数の書籍を執筆。また、テレビやラジオのスポーツ番組の構成や演出などでも活躍している
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