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伊原六花の高校生活を一変させたバブリーダンス。「これでどうやって踊るの?」の戸惑いから紅白歌合戦出場へ (3ページ目)

  • 内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki
  • 佐野隆●撮影 photo by Sano Takashi

この記事に関連する写真を見る そこからの伊原は、「人生で一番ってくらい、努力した」という。

「鏡を見て振り付けを練習し、自分で動画を撮って何度も練習して。次のオーディションで、わたしは当落線上のグレーゾーンのメンバーに入ったんですが、その時は2分半の曲を、最後のひとりに絞られるまで何度も踊るんです。体力がないから本当につらくて。でも、ここで抜いたら絶対に落とされると思って、吐きそうになりながら踊って最後まで残ったのは、すごく印象に残っています」

 日ごろの姿を見ている人たちがいる。そして、努力は評価されると知ったターニングポイント。

 加えて、たったひとりの少しの「緩み」が、いかに作品全体のクオリティを損ないかねないかを、伊原はのちに自らがキャプテンとなり、指導する立場になったと時に痛感する。

 3年生が引退し、2年生が最上級生となった秋ごろ、伊原はキャプテンに就任した。練習メニューを作り、下級生を指導し、ダンス全体の統制を見ながら「緩み」を指摘し、完成度を高めるのがキャプテンの役割だ。

 翌年の全国大会用作品として、楽曲に『ダンシング・ヒーロー』を用いた"バブリーダンス"をakaneから披露されたのも、この頃である。

 もっとも、「ワンレン・ボディコン」の80年代ファッションで踊ると聞かされた時、伊原たちは戸惑った。

「荻野目洋子さんの『ダンシング・ヒーロー』も知っていたし、バブルという言葉も知っていました。ただ、『あれをダンスにするって、どんなこと?』とは思ったんです。タイトスカートだし、ヒールだし、ロングのソバージュだし......これでどうやって踊るの?って感じでした。

 ただ、あがってきた振り付けや、編曲の『オッタマゲー』の入るタイミングを見た時には、akaneさん、やっぱり天才だなって。わたしたちからすると、昔のことも新しい。派手なセンスを持って、自分たちがいない時に流行ったメイクをするのもワクワクしていました」

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