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【マラソン】「陸上は高校まででやめるつもりだった」近藤亮太が、順大4年時に箱根駅伝にたどり着けた理由 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Shun Sato

【今のマラソンへの取り組みにも役立っている】

 4年時は春先から調子が良かった。5月の日体大記録会の10000mで、初めて28分台(28分54秒47)を出した。当時、順大で28分台の記録を持つ選手は多くなく、近藤は「チームの主力になる」という気持ちを強くした。

 夏には実業団の三菱重工の合宿に参加。実業団の選手が何を意識して、どんな練習をしているのかを見聞きし、吸収できるものは、すべて吸収しようと努めた。そして、11月の全日本大学駅伝で学生三大駅伝デビューを果たした。

「7区をまかされ、2位で襷を受けたんですが、前の東京国際大と20秒差ぐらいだったので、(一気に詰めようとして最初の1kmを)2分40秒で突っ込んだんです。そうしたら途中から苦しくて、ひたすら耐えるレースになってしまって......。駅伝は、高校時代に1区しか走ったことがなかったので、"駅伝での走り方"を理解していなかったんです。しかも、順位を5位に落としてしまい、喜びとか手応えはまったくなかったです」

 区間9位で悔しさを噛み締めたが、箱根の前に駅伝を経験できたことは大きかった。そして、いよいよ最初で最後の箱根を迎えた。恒例の10km選考レースの内容はいまひとつだったが、メンバー入りを果たした。そして、大晦日に行なった刺激入れの2km走でも、ピーキングがうまくいっているという感触があり、長門監督にも「近藤、めちゃくちゃ動きがいいな」と言われた。そして翌日、吉報が届いた。

「最初は7区を希望していました。復路のエース区間ですし、そこで走りたいと監督にも伝えていたんです。でも、『お前は単独走が得意だし、スタミナがあって、長い距離を走る力があるので9区か10区だ』と言われて、頭の中でイメージしていました。最終的に10区と言われたのは前日の夕方です。ようやく箱根を走れると思いました」

 第98回箱根駅伝、10区を走ることになった近藤は、2位で襷を受け、順調に走っていた。ところが、残り1kmで運営管理車の長門監督から「後ろから駒澤大が迫っている」と声が飛んだ。

「これはヤバいと焦って、そこからめちゃくちゃ逃げました」

 近藤は残っていた力を振り絞り、総合2位を守ってフィニッシュ。

「うれしかったですね。自分は区間14位で"やった感"はなかったんですけど、チームは総合2位になることができた。仲間に恵まれ、いいチームで箱根を走れたなと思いました」

 近藤にとっては、うまくいかないことの多い4年間だったが、だからこそ実になる時間だった。

「メンバー争いで力を出しきることや、駅伝の難しさなど、苦しんだ経験が多かったです。でも、それが今、自分がマラソンに取り組むうえで、長期的な視点に立ち、練習を点ではなく線で結んでいくことの重要性を教えてくれました」

 それから約3年後、2025年2月の大阪マラソン、近藤は陸上界を驚かすことになる。

(つづく)

後編を読む>>>順大で箱根出場は一度だけ。「初マラソン日本記録」保持者の近藤亮太は"雑草魂"で世界陸上の日本代表になり、ロス五輪も目指す

近藤亮太(こんどう・りょうた)/1999年生まれ、長崎県島原市出身。島原高から順天堂大に進み、箱根駅伝は4年時に10区を走って区間14位。大学卒業後は実業団の三菱重工で力を伸ばし、2025年2月の大阪マラソンで2時間05分39秒で日本人1位、初マラソン日本最高記録を樹立。同年9月の世界陸上東京大会の代表に選出されると、日本勢トップの11位に。2026年3月の東京マラソンで17位(日本人4位、2時間07分06秒)となり、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ/2028年ロサンゼルス五輪マラソン日本代表選考会、202710月に開催予定)出場権を獲得した。

著者プロフィール

  • 佐藤俊

    佐藤俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)、「箱根5区」(徳間書店)など著書多数。近著に「箱根2区」(徳間書店)。

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