バルセロナ五輪マラソン銀メダルの森下広一に待ち受けていた「抜け抜け病」の試練「40km走で女子に抜かれていた」 (3ページ目)
【次の世代にメダルの経験を伝えていきたい】
現役引退から2年後の1999年、森下はトヨタ自動車九州陸上競技部の監督に就任。マラソン選手では、2015年の北京世界陸上の代表となった今井正人(現・順天堂大学コーチ)らを育てている。現在もマラソンはもちろん、トラック種目も含めて指導を行なっている。
「私の場合は厳しい指導のなか、叩き上げでやってメダルを獲れた。その経験が大きかったので、選手には『勝ったと思える人生を送ったほうがいいぞ』と言っています。そのために練習メニューも変化走などから地道に距離を踏む、昭和時代に旭化成で学んだメニューを軸にしています。
ウチにいるのはトップレベルの選手ばかりじゃないですけど、地道にしんどい練習を続けていける、そんな"昭和の心"を持った選手をスカウティングしています。そういう選手のほうが陸上だけではなく、のちに社業に専念する時もしっかり働くことができるんですよ」
今も指導者として走り続けているが、現役当時の森下はなぜ走ったのだろうか。
「自分にはそれ(走ること)しかなかったから。今もそうです。指導をしているうちに、この世界がいいなってあらためて思いました。次の世代にメダルの経験をつなげていきたい、継承していきたいという思いを持って、今も監督として走り続けています」
ちなみに先日、森下は旭化成の練習拠点である宮崎県延岡市でチームの合宿を行なった。
その際、今も延岡で暮らす宗兄弟に食事に誘われた。そこで宗猛が「あの時は言えなかったけど、おめでとう」とバルセロナ五輪の銀メダル獲得について、祝福の言葉をかけてくれた。
実はバルセロナ五輪のレース当日、コーチの宗猛は発熱してホテルの部屋で寝込んでいた。森下はレースが終わり、表彰式を終え、メディア対応をして午後11時過ぎにホテルに戻ると、「2番でした」と銀メダル獲得を報告した。だが、顔色の悪い宗猛は「お疲れさん」とだけ言い、すぐにベッドに戻った。森下は「お疲れさんだけか......」と少し寂しさを感じていた。
今回、33年越しに祝福の言葉を受けたことに、森下は「バルセロナ五輪での頑張りがやっと報われた気がしました」と笑顔を見せた。
(おわり。文中敬称略)
森下広一(もりした・こういち)/1967年9月5日生まれ、鳥取県出身。八頭高校卒業後に旭化成に入社。宗(茂・猛)兄弟のもとで力をつけ、1991年に初マラソンの別府大分毎日マラソンで、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝。翌1992年の東京国際マラソンでも優勝し、バルセロナ五輪の出場権を得ると、その五輪本番では銀メダルを獲得。その後はケガなどで低迷し、再びマラソンを走ることなく1997年に現役引退。1999年にトヨタ自動車九州の監督に就任し、現在まで後進の指導にあたっている。
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。
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