バルセロナ五輪マラソン銀メダルの森下広一に待ち受けていた「抜け抜け病」の試練「40km走で女子に抜かれていた」 (2ページ目)
【コーチの宗猛に泣きながら症状を訴えた】
バルセロナ五輪が終わり、そこから本当の陸上人生が始まると森下は考えていた。23歳のメダリストに陸上界も陸上ファンも注目し、周囲の期待はどんどん膨らんでいった。
「五輪後は、自分への期待に対してちゃんと応えていかないといけないとずっと考えていました。ただ、会う人、会う人に『体調はどう?』『調子はどう?』と聞かれるんですけど、よくない時でも『いいですよ』と答えているうちに、嘘をついていることへの罪悪感がどんどん大きくなっていきました。
次のアトランタ五輪に出たい気持ちもあったんですけど、正直、そのための練習ができているかと言えば、できていなかった。ヒザから下の脚の力が抜けるような感じになって、この脚さえ変えてくれればやれるのにとずっと思っていました」
森下は五輪後、いわゆる「抜け抜け病」に悩まされていた。抜け抜け病は正式な医学用語ではないが、長距離選手によく起こる症状で、脚に思うように力が入らなくなり、例えば真っすぐ前に脚を出したいのにうまくいかなくなったりする。
森下の場合は、5km、10kmといった短い距離を走る分には問題なかったものの、40kmなど長い距離を走る時に抜ける感じになっていた。これではマラソンは戦えない。先が見えず、目標を立てることができなかった。
「いつもの自分ならもっと追い込めるのに追い込めない。思うように走れない葛藤が続いていたんですが、(現役を)やめる勇気もなかった。『陸上をやめてどうするの?』と考えると、怖くてやめられない。ずっと暗闇の中にいました。
一度、(旭化成の副監督の)宗猛さんに『(脚の力が)抜けるんですけど、どうしたらいいですか』と泣きながら訴えたんです。『仕方ない。抜けるのを承知で走らないと。やるしかないからやろう』と言われ、もがきながらも練習を続けました」
ラストチャンスという位置付けで、森下は1997年8月の北海道マラソンに出走することを決めた。だが、札幌での事前合宿で40km走を行なった時のことだった。思うように走れず、女子選手にも抜かれた。
「すごくショックでした。練習後、泣きながら宿に戻りました。その時ですね、引退を決めたのは」
森下はバルセロナ五輪までのマラソン3レースだけで現役を引退した。成績は優勝、優勝、2位(銀メダル)。強烈なインパクトを残して、惜しまれながらの引退だった。
「今思うと、(高校を卒業して)体力がついたタイミングでマラソンで世界と戦えてラッキーでした。当時の日本の選手はみんな強かった。それは練習量もありますが、性格的な部分も大きかったんじゃないですかね。もうマラソンしかないんだという純粋さと一途さがあって、練習にとことん取り組み、自分のやってきたことに自信を持っていた。
宗(茂・猛)兄弟、瀬古利彦さん、中山さん、谷口さん、みんなそういう選手でした。だから、マラソンで世界と戦えたんだと思います」
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