箱根駅伝予選会に挑む立教大学髙林監督 「何やってんだ!」とヤジられた選手時代の苦悩 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

「『終わりよければすべてよし』という言葉どおり、最後には何とかいい結果を出せましたが、正直ホッとしました。出雲駅伝(10位)も全日本大学駅伝(7位)もうまくいかず、箱根の総合優勝はできなかったけど、復路優勝できて、許容できる結果だと感じました。ただ、最後の最後まで、本当にしんどかったです(苦笑)」

 この箱根の経験は、その後の髙林の競技人生に何か影響を与えたのだろうか。

「競技に直接的なプラスはなかったかもしれませんが、4年生での経験は、その後の自分の人生に大いに活きていると思います。これは、自分のことだけではなく、他の選手やチーム全体に注力して取り組んだからこその結果だと思っています」

 駒澤大学を卒業後、髙林はトヨタ自動車に入社した。

 いずれマラソンをやりたいと思い、まずは5000m、10000mをベースにマラソンにシフトしていく方向性で考えていた。

「私は現実主義で、『五輪を目指す』と口にできるタイプではありませんでした。しかし、実業団で結果を出す中で、世界の舞台が目標として見えてきたものの、あと一歩で届きそうで、届かないもどかしさを感じました。その過程で足の痛みを抱えながら我慢して続けていたのですが、体が言うことをきかなくなってしまいました。無理がたたって、ケガをしても元の状態に戻せず、最終的には『社業に専念したら?』と引退を勧告されることになりました」

 2016年、びわ湖毎日マラソンを最後に髙林は現役を引退した。

 学生時代は中高の教員になり、陸上部の顧問を務めたいと考えていた。しかし、実業団というトップの世界で戦うなかで、シニア(大学生・実業団)の指導者を志すようになった。ただし、陸上競技だけを知る指導者にはなりたくないという思いが元々あり、社業に専念することを選び、陸上競技の世界から離れた。

「トヨタの価値観や仕事の進め方など、会社の考え方はすばらしく、競技だけをしているのはもったいないと感じました。社会人としてトヨタで働き、さまざまなものを学び吸収することで、自分の糧にしたいと思いました。そして、将来指導者になった際には、それらの経験を指導に生かし、選手に還元できると考えたのです」

 当初は3年間程度の予定でいたが、気が付けば7年間になっていた。その間、他のクラブチームの運営を勉強させてもらったり、市民ランナーと接したり、陸上のイベント(ランフェス)を開催するなど、競技志向のチームにいると見えないものを見てきた。

「応援してもらうためには、ただ走っているだけではダメだと、さまざまなことを吸収させていただきました。しかし、6年間、指導者としてのオファーはまったくなく、年齢も30代半ばに差し掛かり、自分の将来を真剣に考えるようになりました。当時の職場の上司に、陸上競技の道を諦めきれないことを相談したところ、『応援するよ』と背中を押してくれました。では、どこで指導をしたいのかを考えたとき、思い浮かんだのは駒澤大学でした。大八木さんに相談し、研修という形で駒澤大学に受け入れていただくことが決まりました。当時、背中を押してもらった職場の上司と、受け入れていただいた大八木さん、藤田(敦史・現駒澤大学監督)さんがいなければ、今の私はありません。本当に感謝しています」

 2022年4月、髙林は16年ぶりにコーチとして母校の土を踏んだ。

(つづく)

■Profile
髙林祐介/たかばやしゆうすけ
1987年7月19日生まれ。三重県立上野工業(現伊賀白鳳)高等学校では3年連続インターハイで入賞し、2006年には駒澤大学文学部入部。学生三大駅伝では7度の区間賞を獲得した。卒業後はトヨタ自動車に入社。2011年全日本実業団対抗駅伝にて3区区間新記録を樹立。2016年に現役を退き、2022年駒澤大学陸上競技部コーチに就任。2024年4月立教大学体育会陸上競技部の男子駅伝監督に就任した。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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