箱根駅伝予選会に挑む立教大学髙林監督 「何やってんだ!」とヤジられた選手時代の苦悩 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 髙林にとって箱根駅伝は、高校時代から「通過点であり、箱根で活躍できないと上には上がれない登竜門」。そのため常に上のレベルを目指し、結果を出したいと思っていた。同期の宇賀地と深津という高いレベルの選手に刺激を受けたことも大きいが、そこには髙林自身の競技に対する意識の高さがうかがえる。

 髙林が一番印象に残っている箱根は、3年時の第85回大会だという。

「優勝候補として迎えたのですが、総合13位とシード権を失ってしまい、衝撃が走りました。当時、私は復路で調整練習を終えて往路の様子をテレビで見ていました。これまでテレビに映るのが当たり前だった駒澤大学がまったく映らないという状況が信じられませんでした。往路が15位に終わった夜、監督から『お前を次のキャプテンにする。来年のためにも走りでなんとかしろ』と言われた時は、本当に驚きました。『このタイミングでそんなことを言うのか』と思いつつ、もうやるしかないという気持ちでした。いざ走り出すと、前も後ろも見えず、沿道からは『駒澤、何やってんだ!』というヤジが飛んでくる。走りで前に追いつきたいけど、追いつけない。チームの順位もよくわからない。チームの苦境と自分の無力さが交錯し、心の中には深い虚無感が渦巻いていました。」

 髙林は、チームが低迷するなか、意地を見せて8区区間賞を獲った。駒澤大学は総合13位に終わり、13年ぶりにシード権を失った。そんな状況でキャプテンになった髙林は、新しいシーズンがスタートした時、「大変な1年になるな」と思った。

「大八木さんにとって、駒澤に来てから初めてのシード落ち、予選会となりました。監督自身も私たちも、このような状況を経験したことがなかったため、不安が募るばかりでした。どうやってチームを作り上げていくのか、手探りの状態で進めたので、本当に大変でしたね。」

 チーム全体が停滞している状態で、個々の発奮が必要だと感じ、そのために選手に厳しく接した。「けっこうキレていました」と苦笑するほどだったが、チームづくりの上で髙林自らが「変わらないと」と感じるようになった。

「駅伝はチームで戦う競技ですが、陸上競技は基本的に個人競技であり、各個人のパフォーマンスが結果に直結します。そのため、当時は自分がしっかり走りさえすればいいという自己中心的な考え方を持っていました。しかし、キャプテンとして自分のこと以上に同期や後輩たちの士気をどのように高め、彼らを成長させるかが重要だと気づきました。そこで、一人ひとりに声を掛け、対話を通じて、チームのために自分が何をすべきかを真剣に考えるようになったのです」

 最後の箱根駅伝は9区を駆け、中央大と山梨学院大を抜いてチームを総合2位(復路優勝)に順位を押し上げた。チーム再建に尽力した主将の激走は、「駒澤大、復活」を強く印象付けた。

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