福部真子の「七転び八起き」女子100mハードル競技人生「大失敗をパリ五輪につなげたい」

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

気持ち新たに五輪イヤーを迎えた福部真子 photo by Murakami Shogo気持ち新たに五輪イヤーを迎えた福部真子 photo by Murakami Shogoこの記事に関連する写真を見る

福部真子インタビュー(後編)

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【偉業の裏側にあったプレッシャーと反動】

 中学3年時(2010年)の全国中学校選手権四種競技で優勝した福部真子は、広島皆実高(広島)に進むとインターハイ100mハードルで史上3人目の3連覇を果たした。だが、日本体育大に進んでからは足踏みをした。実業団5年目に日本選手権初制覇、初の日本記録保持者となった福部だが、再び日本のトップ戦線に浮上するまで時間を要した理由を「高校で燃え尽きていましたから」とあっけらかんと言う。

「インターハイ三連覇をするまでがすごいプレッシャーだったので、一気に解放されました。高校2年のころから、将来のオリンピアン、みたいに地元メディアの格好の取材対象になり始めたというか(苦笑)。高校生ながら私もそのことを理解していて、表向きは『五輪を目指します』といった発言をしていました。特に高2で出場した世界ジュニア選手権では、運にも恵まれた形で準決勝に進み、初出場の日本選手権も5番に入ってインターハイも二連覇だったので、もう後に引けなくなっちゃいましたね」

 同じ広島の先輩には同じ種目で2012年ロンドン五輪に出た木村文子(エディオン)がいて、その木村に勝負でも記録でも勝たなければ五輪出場がないことは十分に理解していた。だが、「五輪」という言葉を口に出してしまった以上、その姿勢を貫かなければならない。「弱さを見せてはいけない、強気でなければ」という強迫観念に近い感情とも戦い続けなければならなかった。

「それがしんどすぎましたね。木村さんとは歴然とした力の差がありましたし、私自身はそういう発言を本当はしたくなかった。私がそう発言することは木村さんも嫌だろうなと思ったりして、高校生ながらすごくいろいろ考えていました」

 自分の心を殻で固めて競技を続けていたなかで、心のよりどころとしていたインターハイ三連覇を達成。その年の9月には東京五輪の開催も決定したが、それまでのプレッシャーの反動は、しばし福部に影響を与えることになる。日体大進学後は環境に慣れずホームシックにもなって結果を出せない時期が続いた。

 だが、そんななかで気づきもあった。

「試合に出られなくても、一生懸命チームのために応援する友だちの存在です。その姿を見たことが転機になりました。同じ練習をして、スタート地点に立てなくても、関東インカレや日本インカレには早起きして仲間のために応援に来る。私がその立場になった時に、同じように心の底から頑張ってね、と言えるかな、と。その人間力はカッコよかったですしリスペクトもあり、そこで自分の性格も少し変わったかなと思います」

 大学3年時には400mハードルに取り組んだこともひとつの転機になった。関東インカレで2016年日本ランキング11位の58秒26で優勝し日本選手権でも決勝進出にあと一歩まで迫った。「ひと冬やっただけでここまで来れるんだ」と一時は「世界に出るなら、この種目のほうが近い」とも思ったが、その反面、瞬発力、持久力の両面で高い負荷を伴う種目ゆえ練習のきつさも感じ、「私は100mハードルのほうが好きなんだ」と再確認したという。

 それでも、福部は「陸上は4年生で引退」と決めていた。そのため、大学3年生の冬を「競技生活最後の冬期練習」として取り組み、普通に就職活動も行なっていた。

 だが、大学最終学年の日本選手権で、自己ベストを0秒19更新する13秒37をマーク。高校2年時以来の決勝で4位に入ったことで、『私、まだいけるじゃん。やりたいな』と思い、競技を続けることにした。

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著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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