福部真子の「七転び八起き」女子100mハードル競技人生「大失敗をパリ五輪につなげたい」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【アップダウンの過程で成長し日本のトップへ】

 実業団入り後、オリンピックへの意識が芽生え始めたのが2年目の2019年だった。5月に自己ベストを大きく更新する日本歴代7位の13秒14をマーク。9月の富士北麓ワールドトライアルのウォームアップレースでは12秒97の日本新記録を出した寺田明日香(ジャパンクリエイト)に0秒18差の2位。決勝では13秒13と立て続けに好走を見せた。

「あの年は寺田さんが6年ぶりに陸上に復帰したシーズンで女子ハードル界が少しワーッとなった瞬間に乗っただけっていう感じですが、日本新が出たレースを一緒に走った時に『あ、近い』と思って。『私も頑張ればいける』みたいになりました」

 この時点でも福部は「どうして(13秒)1台が出ているか分からなかった」という。試合では急に体の調子が上がり気持ちが乗ると1台が出てはいたが、練習では何をしたらいいのかが分からない。必要と思われることはすべて取り入れたつもりでも、自信といえるレベルにまで結びつかなかった。

 そんな状況もあり、コロナ禍の2020年は記録を伸ばせなかった。1年延期になったとはいえ、福部自身のなかで東京五輪が見えてこない。それならその年限りで競技を引退しようと考え、その意向を会社にも伝えた。しかし、高校までお世話になった広島の先生たちに報告に行くと、「広島に戻ってやってみないか」と提案され、心が再び動いた。

「広島でなら、もう一回頑張れるかもしれない」と考え会社に相談すると、拠点変更を快く認めてくれた。さらなる転機である。

「パリ五輪に出るため、4年間で立て直すことを決めて12月に広島に戻りました。何より当時は、寺田さんと肩を並べて走りたい気持ちがすごくありました。私の前にインターハイ三連覇をしたのが寺田さんですが、おそらく一緒に走ったレースは1回くらいで、私がトップレベルで走れるようになった時には引退していました。

 その寺田さんが『練習においで』と声をかけてくれたり、落ち込んでいる時に話を聞いてくれて、本当にすごく助けてもらいました。私が変わるきっかけを与えてくれた存在でもあります」

 2021年はシーズンイン直後にケガをして結果を出せなかったが、新たな出会いが福部の成長曲線を再び上昇させていく。広島で尾﨑雄祐コーチを紹介してもらい、指導を受けるようになると、自身が変わってきたことを実感できたという。

 ふたりで話し合う関係を築き、走りを作り上げていく。福部はそれまで、速くなるための必要な要素は理解していたが、それをどのように組み立て、走りに生かすのかがわからなかった。しかし尾崎コーチとの共同作業を進めていくと、グチャグチャになっていたピースがピタリとハマり始めたことを確信できた。

「中学生の頃から感覚が鋭いとずっと言われていましたが、その感覚をどう膨らまして組み合わせればいいのかが分からなかったんです。練習内容はいろいろ考えながらやることで引き出しがどんどん増えて試合の質も上がったし、精神的な波も少なくなり、自分のやるべきこと、集中すべきことがわかってそれにタイムがついてきたっていう感じです」

 課題と考えていたスプリント力も、日体大の同窓で短距離の君嶋愛梨沙(土木管理)と一緒に練習をするなかで、100mを11秒3で走る技術や意識は100mハードルのスプリント力とは全く別物であることに気がついた。自分は寺田のようにスプリント型ではなく、すべてをリズムで持って行くタイプ。100mが速いに越したことはないが、12秒台でも問題はないと割り切ることができた。

 迎えた2022年、5月に自己記録を更新して臨んだ日本選手権の初制覇も「中学の頃からの仲だった君嶋と『一緒に日本一を取って、絶対に代表になろう』と冬季練習中からずっと言っていた。日本選手権も君嶋が先に100mで優勝したから、『私も行かなきゃ』という気持の持ちようは強かった」と話す。

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