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「日本の短距離の歴史が変わる瞬間を見せて欲しかった」北京五輪4×100リレーメダル獲得の裏でリザーブ・齋藤仁志は何を思っていたのか (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

 栃木県鹿沼高校時代は2年時に200mでインターハイに出場したが、3年では腰痛で県大会敗退。「県大会で入賞レベルだった」という齋藤は、国立大で陸上を続けて教員になろうと考えたが、受験に失敗。浪人中も陸上競技は継続し、2005年に全日本ジュニア選手権200mで優勝したことで、大学では本格的に陸上をやろうと考えを変えた。そして、「谷川コーチの指導を受けたい」と一般受験で筑波大に入学。1年生で日本選手権に初出場し5位に入ると、そこから急成長を始めた。

 そして2007年は4月の静岡国際で初の20秒台(20秒79)を出し、6月上旬の日本インカレで優勝。6月下旬からの日本選手権は予選で20秒64、決勝で20秒70と、連続で世界陸上B標準記録を突破。実際に出場はできなかったが、8月のユニバーシアードでは200m8位、4×100mリレー5位の結果を残した。その好調を維持した2008年も評価され、4×400mリレー要員としても北京五輪代表に選ばれた。

「僕の場合はスピードが持ち味というより、ある程度のスピードをゴールまで維持できるというのが強みでした。最大速度はそこまで速くないので、リレーにはあまり適した走りではないというのは正直ありました。だから北京五輪で走るなら、当時、故障者の多かったマイルリレーかなと思っていました。ですが、4継の決勝の前にマイルの予選があったためマイルメンバーからも外れてしまい、代表で走れずに帰ってきたのは僕だけだったんです」

 北京五輪前の日本選手権後の山梨での合宿中に、基本的には塚原直貴(富士通)と末續、髙平、朝原宣治(大阪ガス)のオーダーで行くと伝えられ、齋藤はそれが妥当だと思った。前年の世界陸上の4継で日本記録(38秒03)を出したメンバーが再び揃った状態だったからだ。

「その時点で僕は1走から4走のどこでも走れるような準備をして欲しいと言われていました。日本選手権後から北京までのその2カ月間は、幸福だったと思います。あの4人と一緒にいられたというだけで満足していた自分もいたんです。ただ、最初は緊張しましたね。だって、あの末續慎吾ですよ。世界陸上200mで銅メダルを獲得した人物と同じチームにいるんですから。練習中の靴の履き方とか歩き方とか、気になるところをいろいろ質問させていただき、その答えを聞けた瞬間は、何よりもうれしかったのを覚えています。

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