箱根駅伝2区で日本人1位となった池田耀平 元野球部のエースがなぜ日体大でエースまで上り詰めたのか (2ページ目)
【日体大の上下関係は非常に厳しい】
池田は、中学時は野球部でエースだったが、島田高校に入学後、陸上を始めた。
「中学まで軟式でそれなりにやれていて、高校から硬式になるので練習会に参加していたんです。でも、思ったよりもできなくて、体格的にも厳しいなと思って‥‥。その時、高校の先生に声をかけてもらって、陸上を始めました」
野球をやめる際、両親には「よく考えて」と言われたが、中学では秋冬に駅伝などで走っており、陸上に抵抗感はなかった。高校入学後、最初は陸上についてわからないことばかりだったが、先生の指導で着実に成長。高3の時には5000mがメインだったが、インターハイ1500mで5位に入るなど結果を残した。
「高校で走ると決めてから中距離よりも箱根駅伝を走りたいと思っていました。小中学生の頃から親が見ていたので僕も見ていて、いつの間にかそこで走りたいと思うようになったんです」
箱根を目指した池田が進学先として選んだのが、日本体育大学だった。
「最初は、行きたいっていう感じではなかったんです(笑)。個人的には駒澤大に行きたかったんですが、声が掛からなかったので‥‥。いくつかお話がきた中から日体大に決めたのは、高校の先生が日体大出身で、体育の教員免許を目指せるとか将来のことを考えてくださって、当時の日体大の渡辺(正昭)監督が熱心に誘ってくださったからです」
日体大は質実剛健の大学で、昔から上下関係には非常に厳しいと言われていた。池田も多少は覚悟はしていたが、想像以上の厳しさや理不尽な扱いに面食らった。生活面で慣れないことが多い中、陸上もシンスプリントから膝痛など故障がつづき、1年目は箱根駅伝には至らず、ほとんど走れずに終わった。
「正直、もうやめようかなと思った時もありました」
池田が追い詰められた時、退部を思いとどまったのは自分を支えてくれる人や同期ら仲間の顔が浮かんだからだった。
「僕は箱根駅伝で活躍したいと思って日体大に入学してきたんですが、その際に多くの人が応援し、支えてくれたので、そういう人たちの期待を裏切りたくないと思ったんです。あと、同期ですね。同じように故障で苦しんでいる選手が多かったので、もう1回、みんなで頑張って強くなろうって団結した。それで乗り越えられたんです」
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