箱根駅伝で「2区でいくと言われてもうれしくなかった」。東海大初優勝時のメンバー湯澤舜がそう語ったわけ

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 産経新聞社

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第7回・湯澤舜(東海大―SGホールディングス)前編

2019年箱根駅伝、東海大初優勝に貢献した湯澤舜2019年箱根駅伝、東海大初優勝に貢献した湯澤舜この記事に関連する写真を見る
 2019年、東海大が箱根駅伝を制するための課題は、2区と5区と言われていた。その2区で粘り強く走り、東海大の箱根駅伝初優勝に貢献したのが、湯澤舜だ。両角速監督は、湯澤の走りを高く評価し、「コツコツやるタイプ。卒業後が楽しみな選手」と語った。その言葉どおり、大学卒業後は地道に着々とマラソンで力を伸ばし、今年の東京マラソンでは2時間7分31秒で日本人3位となり、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ・2023年秋開催)への出場権を獲得した。「目立つことが好きではない」と語るが、湯澤はパリ五輪の出場権をかけたMGCに向けて静かに闘志を燃やしている。

陸上は高校時代でやめるつもりだった

 湯澤は、東海大三高(現東海大諏訪)の陸上部だったが当時は大学で箱根駅伝を走ることはもちろん、陸上そのものについても続けようとは考えていなかった。

「箱根駅伝は頭のなかには全然なくて、陸上は都大路(全国高校駅伝)で出しきって引退しようと思っていました。顧問の先生にも『やめます』と伝えたんですけど、止められて(苦笑)。それで続けることになったんですが、その時、東海大と駒澤大から(勧誘の)お話をいただいたんです。自分は、将来教員になろうと思っていたので体育の教員免許が取れること、知り合い経由で両校の練習や部の雰囲気などを聞いて、最終的に東海大に決めました」

 入学してからは、全国の強豪校から集まった同期や先輩の姿を見て、このなかで生き抜き、箱根を走るなら自分の意識を変えていかないといけないと思った。1年目は、自分のレベルを上げることに集中したが、2年生になると湯澤を刺激することが起きた。館澤亨次(現DeNA)、鬼塚翔太(現メイクス)、關颯人(現SGホールディングス)ら「黄金世代」と言われる選手たちが入学してきたのだ。

「黄金世代が入学してきた時は上級生の立場として1年生に負けられないし、かなり意識しましたね。自分は1年目、1500m、5000m、1万mといろいろやって方向性が定まっていなかったんです。黄金世代の選手たちは、圧倒的にスピード系の選手が多かった。そこで勝負するよりも、もともとロードで淡々と走るのが好きで、自分のパフォーマンスも発揮しやすいと思っていたので、自分はハーフに特化して、そこでアピールしていこうと決めたんです」

「実績がない」という理由で出走かなわず...

 1、2年目は足の故障や黄金世代の勢いもあって、箱根に絡むことができなかった。3年生になると、箱根駅伝のエントリ―メンバーに入り、区間エントリ―で10区に指名された。だが、レース当日の区間変更で4年生の川端千都(現SGホールディングス)と入れ替わり、出走は叶わなかった。

「この時は、めちゃくちゃ悔しかったですね。当日変更は事前に伝えられていたので、当日のショックはなかったんですが、その時は本当に調子がよくて、やれる自信があったんです。でも、監督からは実績がないからと言われて、走れなかった......。その時、やっぱり大きな大会で結果を残さないといけないと思いましたし、最後の1年、より一層がむしゃらにやっていかないと箱根は走れないという危機感が生まれました」

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