『陸王』が掘り起こす「幻のハリマヤシューズ」もうひとつの職人物語 (4ページ目)
ところが今度は、せっかく国際大会への参加が認められたというのに、選手団を海外に派遣する金がない。遠征費用を捻出するために、日本陸連にかけ合ったり寄付集めに奔走したり、東京での仕事が次から次へと降りかかり、金栗は熊本に帰れない日々が続くのだった。
こうした上京の折に、勝蔵と金栗は国産マラソンシューズ開発について議論を重ねた。
勝蔵は家業に入った頃から常に枕元にノートと鉛筆を置いて、眠りに落ちるまで思考をめぐらせ、夜中でもアイデアが浮かぶとすぐに書きとめた。1919年(大正8年)に発売された辛作の金栗マラソン足袋が戦後まで長く愛され続けたのも、勝蔵によってゴム底の滑り止めや靴ひもの締めつけに改良が重ねられたからだろう。
勝蔵は15歳年上で陸上界の重鎮でもある金栗の意見を踏まえつつ、ついに1950年(昭和25年)、マラソンシューズの試作品第1号を完成させた。
翌1951年(昭和26年)、金栗は念願だったボストンマラソンに選手4名を送り込み、田中茂樹が期待に応えて見事優勝を果たした。
ただし、このときの田中は"マラソン足袋"で快挙を成し遂げている。
マラソンシューズが出来上がっていたはずなのに、なぜマラソン足袋で走ったのだろうか。
「先がすぼまったシューズの履き心地にまだ慣れず、窮屈に感じたのかもしれません。当時の日本人の足型は草履や下駄を履いていたせいで、足先にいくほど扇型に広がって、親指が大きかった。そのため、田中選手は親指が独立した二股のマラソン足袋を選んだのでしょう」
そう語る誠一の推測は、あながち外れていないだろう。
その2年後、再びボストンマラソンに選手団を送り込んだ金栗は、愛弟子である山田敬蔵に、国産初のマラソンシューズ「カナグリシューズ」を履かせてレースに挑むことにした。
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