『陸王』が掘り起こす「幻のハリマヤシューズ」もうひとつの職人物語 (3ページ目)

  • 石井孝●文・撮影 text & photo by Takashi Ishii


 ちょうどその頃、四男一女に恵まれていた勝蔵の一家は辛作の家から独立し、東京・護国寺のかつて武家屋敷だった古い一軒家に移り住む。広い家には客間があり、そこには金栗四三が熊本から上京するたびに寄宿するようになった。

 誠一が当時を回想する。

「私が8歳の頃からずっと、金栗先生がウチにいるのが当たり前のような生活でした。長いときは1年のうち10カ月もいた覚えがあります。先生が滞在していると、私たちも朝6時に叩き起こされて、護国寺の境内や雑司ヶ谷の墓地の周りを2kmから3kmほど走らされてね。先生は真冬でも冷たい水をザブザブ浴びて、乾布摩擦(かんぷまさつ)をされるんです」

 金栗は幼い誠一をわざわざ地方の陸上競技大会に連れて行ったり、富士山登山に誘ったりした。ある年には金栗の熊本の家に連れ帰ったこともあるという。熊本では飼っていたヤギの乳を勧められたが、子供の誠一にとっては臭くてとても飲めたものではなかった。

「ばかもん、ヤギの乳も飲めんのか!」

 そのときばかりは鼻をつままれて無理やり飲まされたが、誠一の記憶に残るのは、いつも自分を可愛がってくれる優しい金栗の姿だった。

 熊本に家族を残したまま、なぜ金栗は東京の勝蔵の家を頻繁に訪れ、長期にわたって滞在しなければならなかったのだろうか。

 戦争によって国際舞台から遠ざかっていた日本マラソン界を立て直すために、金栗は「日本マラソン連盟」を発足させて、その会長におさまっていた。日本各地で競技大会を開催し、長距離向きの選手を発掘しては、強化合宿に呼び寄せた。

 しかし、敗戦国でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下にあった日本は、1948年(昭和23年)のロンドン五輪への参加が認められなかった。そこで金栗はオリンピックに次いで歴史のあるマラソンのメジャー大会、ボストンマラソンへの参加をアメリカの大会本部と交渉して認めさせた。

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