ドラマ『陸王』の100年前、日本初の五輪選手は足袋で世界に挑んだ (2ページ目)
■死者が出るほど過酷だった五輪のマラソン■
引きも切らず新橋駅に押し寄せる群衆から「万歳三唱」で見送られた金栗四三らオリンピック代表団は、鉄路で敦賀を目指し、そこから航路でウラジオストクへと渡った。さらにシベリア鉄道でモスクワ入りし、サンクトペテルブルクの港からまた汽船に乗り継いで、実に17日間をかけてスウェーデンの首都ストックホルムに辿り着いた。
現在では想像もつかないほどの長旅に加えて、ストックホルムは白夜の季節で眠りが浅く、初めて体験する現地の食事も口に合わない。金栗は試合当日までに思うように疲れがとれずにいた。
しかもマラソン競技当日は、北欧には珍しく気温35度を超す猛暑日だった。レースは、参加者68名中、完走者は半分の34名。ひとりが日射病で命を落とすほどの過酷なものとなった。
金栗はスタートで出遅れたものの、折り返し地点を過ぎて17番手まで順位を上げた。しかし、辛作に厚手の3枚布で補強してもらった布底は、日本の道より硬い石畳からの衝撃を吸収しきれず、そこから追い上げようにも、もう膝が割れるように痛くて前に進まない。
26kmを過ぎたあたりで金栗は猛烈な疲労感を覚え、意識が朦朧(もうろう)となり、知らず知らずのうちにコースを逸(そ)れて林の中へ入っていってしまった。やがて民家の庭先に迷い込み、そのまま倒れ込んでしまう。おそらく日射病の症状もあったのだろう。金栗が再びコースに戻ることはなかった。
スタート直後のストックホルム五輪マラソン競技。金栗は後方にいると思われる。(TT News Agency/時事通信フォト)
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