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為末大が語る「体罰問題」。選手と指導者の正しい関係とは? (4ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Kimura Yukihiko photo by Yamamoto Raita

――それを悟りだしたのはいつくらいですか? 2001年の世界陸上エドモントンの前くらい?

「それくらいですね。エドモントンの時は『勝負論』みたいなものを考えていたんですけど、その後はスランプにハマってしまいました。それと、社会からの期待とも向き合わなきゃいけないというのもあって。『速さ』というのは、ただグラウンドでどう速く走るかという問題ですけど、『強さ』というのは敵が何人かいて、ひとつはライバル、それに自分自身、そして、これは敵かどうか分からないですけど、社会の期待とか。その辺をどうマネジメントするのかというのが『強さ』に影響するわけです」

――エドモントンで銅メダルを獲得するわけですが、その後、そこでのメソッドを一度捨てましたね。つまり経験主義にならなかった。競技者というのはひとつの栄光をつかむと、そこでまた同じ方法で続けると思うんです。そこに行かずに、一回解体したのはどういう過程だったんでしょうか?

「成功体験というのは成功した後は毒になっていくじゃないですか。自分の身体はもう変わっているにもかかわらず、あれをもう一回くり返したいと思う。苦しくなるとどうしても、成功体験に逃げるというのはずっとあるんです。

 2年くらいして、同じやり方じゃもうダメなんだというのを理解しました。ただ、頭では分かっていても、身体はどうしても動いてしまうんです。新しい自分の身体に適応した新しい勝ちパターンを構築するというのをそのくらいから練っていきました。

 そこにはどうしても苦しさと、もうひとつ、勝ってしまったというプライドというものが、案外ひっかかるんです。本当の意味で自分をさらけ出して勝負するということは、会社を辞めてプロになってスポンサーが全然つかないとき、自分の値段を目の前で言われることで初めて体験しました。それで、本当に『自分は世の中から忘れられたんだ』というのをきちんと受け入れられて、何でもできるようになったと思います。

 実は、それより以前は口では何でもやると言いながら、どこかメダリストとしての自分の評判を守りながらの範囲での『なんでもやる』だったんですね」

――それも相対化したわけですね。為末さんはものすごい読書家でもあるわけですが、自立に関してはこれも大きかったんじゃないかと思います。アスリートの読書というと自己啓発ものが多いですが、歴史書、哲学書、たとえば、ポーランド遠征に行くときは『夜と霧』(ヴィクトール・フランクル)まで持っていった。そういう貪欲さが多様な考え方につながっていったのではないかと思うのですが、アスリートに読書体験を勧めるとすると何でしょう。

「『夜と霧』は、結局高い所に行けば行くほど追い込まれるということが分かる本ですね。極限の状態というのは、何が人間を人間たらしめているのかが分かる、というか。

 もうひとつ、アスリートは、案外自分はもろい、弱いというのを自分が受け入れないといけないと思うんです。そうじゃないと実は本当の自分とは向き合えないんじゃないかなと思っています。

 他人の人生も自分の中に取り込んで行くというのは、本を読むことでしかできないと思うんですね。僕は比較的、活字からそういうものを得たがる方なんですけど、いろんな人の人生や考え方、認識の仕方みたいなものをいっぱい溜め込むというのは競技力と無関係じゃないと思っています」

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