車いすラグビー界のレジェンド島川慎一。48歳でも「今がベスト」とコーチも絶賛、チームメイトは「この人が味方でよかった」 (2ページ目)

  • 荒木美晴●取材・文・写真 text&photo by Araki Miharu

【強くなるために、道を切り拓いてきた】

 日本の車いすラグビーの歴史とともに歩んできた。

 1975年1月生まれ。21歳のときに交通事故で頚髄を損傷し、車いす生活に。右手の麻痺は比較的軽いが、左手は握力がなく、体幹機能にも障害が残った。車いすラグビーに出会ったのは、99年の24歳の時。それまではパラ陸上に取り組んでおり、チームスポーツには興味がなかったが、友人に誘われて参加したクラブチームの体験会でラグ車(競技用車いす)に乗ってみたところ、ぶつかり合いの激しさに惹かれ、競技を始めた。

 車いすラグビーは2000年のシドニーパラリンピックから正式競技に採用され、日本は04年のアテネ大会に初出場。島川も日本代表に選ばれた。しかし、現地のクラス分け再審査の結果、ほかの選手の持ち点が変更になる前代未聞のハプニングに直面。急造ラインで戦わなければならない状況となり、島川は最多得点を挙げる活躍を見せたものの、結果は最下位の8位に終わった。

「不完全燃焼だった」

 悔しさに突き上げられ、島川は強くなるための挑戦を始めた。05年、島川は新たにクラブチーム「BLITZ」を設立。"電撃""稲妻"を意味するチーム名のとおり、激しいプレーで競技の魅力を伝えることを目指した。

 時を同じくして、海外でのプレーを決意。立ち上げたばかりのBLITZの仲間にも背中を押され、アテネ大会で銅メダルを獲得したアメリカのクラブチームからの誘いを受け、単身渡米。"フェニックス・ヒート"では、選手の勝ちに対する貪欲さと、車いすラグビーに誇りを持って取り組む意識の高さに刺激を受けたという島川。1年目にしてチームの主軸として活躍し、全米選手権優勝に導いただけでなく、外国人プレーヤーとして初の最優秀選手に選出された。07-08年シーズンには名門"テキサス・スタンピード"に移籍し、ここでもチームの優勝に貢献した。その活躍が後輩たちへの道標となり、のちに池崎や池透暢(日興アセットマネジメント)らもアメリカ修行を経験している。

 北京パラリンピックは7位、ロンドンパラリンピックは4位と大会ごとに順位を上げ、そしてリオパラリンピックで初めてメダルを獲得。満を持して臨んだ東京パラリンピックも3位だった。競技レベルが向上するなかで表彰台を守ったことは誇りだったが、金メダルを逃した悔しさが、再びベテランのやる気に火をつけた。

「このままでは辞められない」

 銅メダルを手に語った覚悟と、鋭い視線を前に向けた姿が印象に残る。また、BLITZも日本選手権を8度制する屈指の強豪チームに成長。今年1月の日本選手権でも強さを維持し、チーム登録者が6人と最小人数ながら3位に入っている。島川はチームで唯一のハイポインターとしてフル出場。肉体的にも精神的にも、誰よりもタフであることを証明した。

 6月29日に「2023 ワールド車いすラグビー アジア・オセアニア チャンピオンシップ」(東京体育館)が開幕する。来年のパリ・パラリンピックのアジア・オセアニア地区から出場権「1枠」を決定する重要な大会だ。世界王者のオーストラリアやニュージーランドが参戦し、混戦が予想されるが、島川の座右の銘「ネバーギブアップ」のとおり、全力で戦い、あきらめない姿勢をまた見せてくれることだろう。世界に誇る現役レジェンドの活躍に、ぜひ注目してほしい。

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