出会う人々に導かれた京谷和幸の「車椅子バスケ人生」とは (2ページ目)
伊藤 普通考えたら30代後半って肉体的にもしんどい年齢ですよね。
京谷 確かに肉体的なものが一番しんどかったですね。肘に関節ねずみが今もまだいるんですよ。肩は、四十肩じゃないですけど、関節がもうダメですね。当時はヒアルロン酸を注入していました。首は2か所頸椎ヘルニアがあって、寝ているときも朝起きるときもしびれているんです。そんな状態でずっとやっていましたね。
伊藤 その北京パラが終わってから、ロンドンパラまでは今振り返るとどんな4年間でしたか?
京谷 あの4年間は一番頑張ったかな。でも、それを努力とは思っていません。代表に行くためには絶対やらなきゃいけないこと、それがつらくても苦しくてもやらなきゃそこには行けないっていうのが分かっていたので、やり続けただけです。
伊藤 京谷さんの車椅子バスケ人生は、ロンドンまでの4年間があったことでかなり意味深いものになったんですね。
京谷 そうなんですよ。続けることを決めたとき、最初に考えたのは、代表に入ること。それに、自分の最終的な車椅子バスケットはロンドンパラまでと決めていました。ロンドンの後は年齢的にも代表としてはやらないし、代表がないなら引退というのがあったので。最終的に代表を決める合宿のときには、ここで代表から漏れても、ここまで一緒にみんなとやってきて、自分が感じたことは、その後の人生でプラスになるだろうなというふうに思っていました。幸いなことに、ロンドンパラの代表に入ることができましたけど。
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