フェンシング・尾﨑世梨が感じた、海外遠征で生きた大学での授業と英語力「文武両道を目指せば絶対に役に立つ」 (2ページ目)
――やはり勉強をやる必要があったのですね。高校ではどのような生活でしたか。
私は下宿生活を送っていましたが、高校時代が一番忙しかったですね。体育科ということもあって、まずは朝練から始まって、1~4限で授業を受けて、5~6限は週2回が体育で、週2回は5~6限から部活というスケジュールでした。練習は毎日19時30分くらいまでやっていたと思います。昼休みも練習した時期もありましたので、基本は午後からずっと練習ですね。
――それだとなかなか勉強する時間を取れないですね。
そうですね。ただ顧問の先生が、"勉強あっての部活"という考え方でしたので、ハードな練習スケジュールではありますが、例えば、テストで赤点を取った人は放課後に勉強になることはありました。勉強をないがしろにしていい環境ではまったくなかったです。だから私もテストでしっかり点数を取れる勉強はしていました。
――学業の成績はどうだったんですか。
教科にもよりますが、上位のほうが多かったです。限られた時間のなかで、スポーツも勉強もやることが一番大変でした。その頃も遠征や代表合宿がありましたが、コロナ禍ということもあって、それも少なくなってはいました。
フェンシングができる環境を求めて進路先を選んできた尾﨑 photo by Gunki Hiroshiこの記事に関連する写真を見る
【遠征先でも勉強】
――大学への進学については、どのように考えていましたか。
いくつか選択肢があったんですが、法政大学を選んだのはフェンシングがすごく強い大学で、高校のときの顧問の先生が法政でしたし、先輩も進学していた縁があり、自然な流れで私も法政に行きたいと思っていました。これは推薦での入学で面接と小論文でした。
――法学部国際政治学科に進学していますが、どのようなことを学びましたか。
世界の政治や経済のことです。中国の政治、ヨーロッパの政治の状況を学んだり、過去においてはどんな政治が行なわれたかなどです。大学時代は海外遠征も多かったので、事前に授業で学んだ国に行くことがあって、実際にどうなのかを見るのは楽しみでした。
――大学時代は競技のほうではパリ五輪に向けて練習にも力が入っていたかと思いますが、海外遠征や合宿も増えましたか。
増えましたね。大学2年の1月くらいからシニアのカテゴリーで遠征にまわり始めたので、そこからはほぼ遠征でした。学校には半分くらいは行けていなかったです。
2 / 4