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「オリンピック金メダルと同じくらい大切なことがある」橋本大輝、谷川航の育ての親が語る体操論 (2ページ目)

  • 辛仁夏●文 text by Synn Yinha

現在も市船の技能講師、セントラルスポーツのアドバイザーコーチとして教え子を指導する神田眞司氏現在も市船の技能講師、セントラルスポーツのアドバイザーコーチとして教え子を指導する神田眞司氏この記事に関連する写真を見る【五輪に出られなかった現役時代】

「翌年の1988年に西川(大輔)や池谷(幸雄)が代表になったソウル五輪があって、五輪代表選考の2次予選では6番に入ったから"大丈夫かな"と思っていたんですけど、次戦のNHK杯の時に試合前夜の夕食に食べた刺身で食あたりをしてしまい、結局、11位に終わった。本当にくだらない失敗をしました。

 当時は結婚もしていて、定時制の教員をしながら、学校のあとで100キロも離れた遠い練習場に通って練習するという日々を過ごしていましたが、大変なことをやっているという思いはさらさらなくて、辞めることに対しての意地があって、結果を残して辞めたいという気持ちだけがあったんです」

 日本を代表して国際試合の舞台に立つことへの想いを、神田コーチは続ける。

「初めて日本代表になって出場したロッテルダムの世界選手権では、体操が面白くなかったんです。歳も取っているし、ただ点数を取るという体操だったからです。でも、代表になりたかったし、代表になれるのがうれしかったから、自分がやりたい体操ができなかったわけです。だから、ソウル五輪の選考会ではどっちの体操をやるか迷ったんです。まとめれば点数を取れて代表になれる可能性は高くなるけど、悩んだ末に技をやるほうで臨みました。平行棒と鉄棒で技を入れましたが、結局、体調不良で思いどおりの演技はできませんでした。

 ソウル五輪の選考会が終わったあと、"なんだかんだ言っても(代表になって)出なきゃ始まらないよな"と思いました。大会に出られない以上、きれいごとになる。そういう経験が全部、(いまも)教える時に生きています。

 長く現役で体操をやり、若い学生たちと一緒に練習をして、いろいろな選手をいっぱい見てきて、"こういうタイプの選手はこうだったな"とか、指導するうえで財産になっています。いろいろなタイプの選手がいましたが、面白いもので、人間はうまくいったケースよりも、ダメな時のほうが覚えているんですね」

 現役時代から打ち込んできた体操を、65歳になったいまも指導者として追求している。選手たちにとっては父親のような頼れる存在だからこそ、卒業生たちはいまでも神田コーチがいる体育館に集まり、指導を仰いだり、相談相手になってもらったりしている。

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