藤澤五月が語る「メガネ先輩」との戦い――「本当に珍しい」勝って涙が出てきた大会の思い出
連載『藤澤五月のスキップライフ』
12投目:珍しく勝って泣いたニュージーランドでの試合
ロコ・ソラーレ藤澤五月の半生、"思考"に迫る連載『スキップライフ』。今回は、相当なプレッシャーを抱えて臨んだ2012年のPACC(パシフィック・アジア選手権)での戦いについて振り返りつつ、軽井沢アイスパーク完成当時のことに思いを馳せる――。
2012年のPACCでは見事に世界選手権の出場切符を獲得した。当時日本代表の中部電力。左から清水絵美、市川美余、松村千秋、藤澤五月、佐藤美幸。photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る【五輪へのプレッシャーと戦った2012年のPACC】
2012年11月、ニュージーランドのネイズビーで行なわれたPACCに出場しました。
私にとって、日本代表(当時中部電力)としての2度目の国際大会です。1度目はその前年に中国・南京で開催された同大会で、成績は4位でした。その結果、日本は翌年の世界選手権に出場できず、とても責任を感じていました。
当時のレギュレーションでは、このネイズビーのPACCで2位以上の成績を残せず、再び世界選手権に出場できないとなると、日本はその時点で2014年ソチ五輪の出場資格を失ってしまいます。ですから、非常に重要な大会でした。
ネイズビーはクライストチャーチから南西に200kmほど進んだ"The 大自然!"といった美しい街でしたが、「負ければ五輪出場への道が絶たれてしまう」というプレッシャーはずっとあって、景色を十分に楽しむ余裕などありませんでした。
覚えているのは、大会中はホテルではなく、会場近くの小さな民宿みたいなレンタルハウスを借りて過ごしたことです。バスタブがなかったので、トレーナーさんがよい香りのするマッサージオイルでふくらはぎをほぐしてくれて、思えばそれが、私がアロマに興味を持って、のちにアロマセラピーの資格を取得するきっかけでもありました。
大会では、ダブルラウンドロビン(2度ずつ総当たりする予選)を3位で突破。勝てば世界選手権につながる準決勝の相手は、のちに平昌五輪(2018年)で"メガネ先輩"の愛称で日本でも親しまれることになるキム・ウンジョン選手率いる韓国でした。
かなり緊張した試合でしたが、なんとか主導権を握って勝利。決勝進出を果たすと同時に、世界選手権の出場権を得ることができました。勝った瞬間は、うれしいというより心からホッとして、涙が出てきました。
どちらかと言えば、私は勝った試合よりも負けた試合のほうが、鮮明に記憶に残っているのですが、この大会に関しては、決勝で中国に負けて悔しかったことより、世界選手権の出場権を獲得した準決勝で勝てたことのほうが印象的でした。勝って泣くのは、本当に珍しいことです。
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