「劣等感の塊」だったガリガリモデル→フィジーク王者に! 直野賀優「見返してやるぞって気持ちでやれているんです」
メンズフィジーク・直野賀優 インタビュー後編(全2回)
JBBF(日本ボディビル・フィットネス連盟)の「オールジャパン フィットネス チャンピオンシップス」フィジークカテゴリーで階級別3連覇(2019、2021年は176センチ超級で優勝、2022年は新設された180センチ超級で優勝)を成し遂げているトップフィジーカーの直野賀優(なおの・よしまさ/32歳)。
そんな直野は、一番になることに並々ならぬこだわりを持っている。一番に飢えるようになったきっかけとは? 自身が「劣等感の塊のような人生」と語る、直野の半生をインタビューでたどっていく。
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【きっかけは大学時代の劣等感】
ーーインタビュー前編では、トレーニングするようになったのは大学時代とおっしゃっていました。
直野賀優(以下同) そうですね。僕は小学校からバスケットボールをずっとやっていて、筑波大学の体育専門学群のOBだった高校時代の恩師に「お前も筑波に行ってバスケをやりなさい」とやんわり言われたんです。それで、筑波に進学しました。そこは環境的にトレーニングが身近にあったんです。
ーー筑波大へはスポーツ推薦で?
いえ、一般受験です。
ーー文武両道ですね。
全然ですよ。センター試験(現・大学入学共通テスト)の3カ月前に死にもの狂いで詰め込んだだけです。
でも、僕の入った学部はスポーツ界のトップが集まるところ。バスケのレベルも高すぎて1年も経たないうちに挫折。結局、退部して劣等感を感じるようになりました。
さらに、大学1年生の頃に銀座のアバクロ(アバクロンビー&フィッチ)のお店が流行っていて、友達と一緒にモデルスタッフの面接を受けたら、友人だけ受かって僕は落ちてしまい、そこでまた劣等感が強くなって......。
この記事に関連する写真を見るーーそれはつらい。
何か肩書きというか、自分にとっての強みみたいなものがほしいとモデル事務所に入ったんですが、そんな自分が仕事をとれるわけでもなく。
授業を受けて、バイトして、トレーニングして、事務所からすすめられたモデルオーディションを受けては落とされて......。学生時代はその繰り返しでしたね。大学4年生の頃に、仕事がないのは筋肉的にガリガリでカッコよくないからだと思って、本格的に筋トレに打ち込み始めたんです。
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著者プロフィール
武松佑季 (たけまつ・ゆうき)
雑誌ライター。1985年、神奈川県秦野市生まれ。編集プロダクションを経てフリーランスに。インタビュー記事を中心に各メディアに寄稿。東京ヤクルトファン。サウナー見習い。