競輪界の未来を担うルーキー小泉夢菜、一丸尚伍、又多風緑。勝つべくして勝つ3人のポテンシャルと知られざる過去とは (3ページ目)

  • text by Sportiva
  • 高橋学●撮影 photo by Takahashi Manabu

 逆境をはねのけ、不屈の精神で自転車競技を続けてきた一丸を表現する時、これらのエピソードだけでは足りない。彼の柔和な笑顔と語り口、漂う雰囲気を知ってもらうためには、祖父とのエピソードを紹介する必要がある。

 小学2年の時に、祖父の誘いで自転車を始めた一丸。最初は「走った後にジュースを買ってもらえるので、それを目当てに一緒に練習に行っていた」という。時間は、「近所の山を登って帰ってくる感じなので、1時間くらいだった」そうだ。

 もともと競輪選手を目指していた祖父。しかし「親が賛成しなかったのもあって、サラリーマンをやりながら、競技をしていて、国体にも出ていた」。83歳になるまでロード自転車に乗るほどのバイタリティの持ち主で、その実力も「相当なものだった」と一丸は言う。

 祖父と一丸の練習は中学になっても続き、祖父は夕方、車に自転車を積んで学校の門で待ち、そのまま一丸を乗せ、競輪場に連れて行った。一丸も、「それが当たり前だったので、あまり何も考えず、毎日やっていたと思います」と苦に思っていなかった。

 一丸は高校から親元を離れ、自転車競技を本格的に始めるが、祖父とは連絡を取り続けていた。大学時代も、社会人になってからも、それは変わらなかった。実家の近所に住む祖父の家にも頻繁に足を運んでいた。

 そして一丸は結婚し、子供が生まれることもあって、「お金が必要になってくるので、競輪(選手で稼ぐこと)を考え始めた」。日本競輪選手養成所に入ることを祖父に伝えると、ことのほか喜んでくれた。

 そして養成所に入っている時、祖父が現役時代から愛用していた名機「メカニコ・ジロ」の新フレームをプレゼントしてくれた。「もらってからずっとこれに乗っていて、この自転車でデビュー戦を走ると決めていた」と一丸は卒業後のレースを心待ちにしていた。

 しかし祖父は、一丸が養成所に入っている間にくも膜下出血で倒れてしまう。現在も入院中で「卒業した時にはあまり話はできなかった」そうだ。

 ルーキーシリーズ第1戦の勝利を振り返り、「祖父も乗っていたメーカーのフレームで勝てたというのは、やっぱりうれしかったですね。祖父も少しは元気になってくれるかな」と語った一丸。レース後の笑顔の裏には、そんなストーリーが隠されていた。

 祖父が叶えられなかった競輪選手として活躍できることになった一丸。祖父の想いを背負い、そして祖父の回復を祈り、これからも彼は勝利を目指し続ける。

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