大ケガを負って「相撲をやめよう」と思った栃ノ心が再起できたわけ (2ページ目)

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

 そこでは、ふたりでいろいろと愚痴をこぼし合っていました。「ああ、田舎に帰りたいなぁ......」から始まって、あれが食べたい、これが食べたい、朝ゆっくり眠りたいね、とか......。

 それでも、日々稽古に励んで、師匠(春日野親方=元関脇・栃乃和歌)の厳しい指導もあって、私は入門から1年で幕下に昇進しました。幕下には1年いたんですけど、負け越したことは一度もないんです。

 その当時、驚いたのは、大相撲の世界って、幕下以下の力士は給料がもらえないってこと。場所ごと(2カ月に一度)の手当だけですから、ちょっとご飯を食べに行ったり、身の回りのものを買ったりするだけで、すぐにお金がなくなっちゃうんです。「プロの力士になったら、お金が入る」と聞いていたので、最初はショックでしたね。

 けど、同時に十両以上の関取になれば、給料がもらえることを教えてもらって、早くその地位まで上がって、「田舎の両親の生活を楽にしてあげたい」と思ったものです。

 相撲の世界に入ってからは、とにかく「早く十両に上がりたい!」――その一心でした。幕下で負け越しがなかったのも、それが理由だと思います。

 そうした思いは、ほかの外国出身力士も皆、同じではないでしょうか。

 十両は2場所で通過して、2008年夏場所に新入幕。以降、2009年、2010年、2011年と、毎年1回は三賞(いずれも敢闘賞)をいただいて、幕内力士として定着し、私自身、充実した日々を過ごしていました。

 ちょうどその頃だったと記憶しているんですが、当時小学校5、6年生だった佐藤貴信くん、のちの貴景勝が、私が所属する春日野部屋の、大阪や名古屋の宿舎によく来ていたんですよ。貴景勝は、今も小柄なほうですけど、当時も同じ年齢の子どもと比べても小さくて、とにかくかわいかったですね。

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