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蒼国来が語る、内モンゴルから
角界入りした17年前の「運命の日」 (2ページ目)

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

 小学校に入った頃から、スポーツは得意でした。モンゴルの遊牧民の家に生まれた逸ノ城もそうだったように、家で使う水を汲みにいくのは、長男の私の仕事。そのほかにも馬に乗ったり、動物を追いかけたり、いつも体を動かしていたから、自然と運動神経が発達したのでしょう。「スポーツに関しては誰にも負けたくない」という気持ちでしたね。

 中学生の頃には、学校の先生にも「将来は、スポーツで身を立てたらどうか?」と言われていたので、卒業後は田舎を出て、省都・フフホトのスポーツの専門学校に入ることになったんです。1998年の冬のことです。

 その時点では、どんなスポーツをやるか決まっていなかったんですが、その後、ボクシングをやることになりました。30~40人くらいいるボクシング部員は、みんな走るのが速くて、私はついていくのがやっと。「向いていないのかなぁ」と悩みましたね。

 そんな時でした。学校では1年に1回、部対抗のモンゴル相撲大会があって、私がボクシング部代表として出場したところ、レスリング部代表の3人に勝っちゃったんです。そうしたら、レスリング部の監督が「おまえは、絶対レスリングをやったほうがいいよ」と。

 そもそも私は、殴り合いが嫌いだったのですが、この学校を紹介してくれた人がボクシングを勧めてくれたので、それに従っていただけでした。そうした事情もあって、ボクシング部とレスリング部の監督が話し合った結果、数週間後、私はレスリング部に転部することになりました。

 学校の寮の3階にあるボクシング部の部屋から、2階のレスリング部の部屋へ――。布団を持って2階に移っただけなんですけど、その時の情景がいまだに忘れられません。

 2000年6月28日。私にとって、運命の日になりました。

 その後、レスリング部で練習に励んで、中国国内の大会でベスト8になることもできました。その最中の2003年1月、朝青龍関が「モンゴル人初の横綱になった」というニュースが内モンゴルでも大きく報道されました。

「へぇ~、日本の相撲か。モンゴル相撲とは全然違うなぁ」

 この時、私は初めて大相撲のことを知ったのです。

 そして、4月。のちに師匠となる荒汐親方が力士候補生を探しに内モンゴルにやってきたのです。

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