重量挙げの魅力に取りつかれた男。五輪でメダルに迫った池畑大の大誤算
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PLAYBACK! オリンピック名勝負------蘇る記憶 第5回
東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。
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ウエイトリフティング男子59kg級の池畑大にとって、26歳で挑む1996年アトランタ五輪は、最初で最後のオリンピックと決めていた大会だった。
最初で最後の五輪と決めて、アトランタオリンピックに臨んだ池畑大 ウエイトリフティングは、64年東京五輪と68年メキシコ五輪で三宅義信・義行兄弟が活躍したことから「日本のお家芸」と言われ、76年モントリオール五輪でも銅2個を獲得した。だが、ソ連など当時の社会主義諸国がボイコットした84年ロサンゼルス五輪で銅3個を獲得したあとは、メダルに手が届かない競技になっていた。そんな状況で池畑は、久しぶりにメダルを期待される存在だった。
池畑がウエイトリフティングに出会ったのは、鹿児島商工高(現・樟南高)に入った時だった。父親が経営する自動車整備工場を継ぐと決めて自動車科に入り、競技をするつもりはまったくなかった。だが、ウエイトリフティング部の監督から勧誘を受け、一度経験してみると一気にのめり込んだ。予定外の大学にも進み、大阪商業大学2年の頃には、2年後の92年バルセロナ五輪を目指すことにした。それが実現すれば競技を辞め、家業を継ぐつもりだった。
だが、バルセロナ五輪出場はならなかった。56kg級の代表は確実と思われていたが、最終選考会の1回目の計量で体重450gオーバーで、1時間後の2回目の計量までに300gしか落とせず、失格となったからだ。
父親にもう一度やらせてくれと頼みこんだ池畑は、大学卒業後の93年に自動車専門学校へ進む。同時に協会の強化合宿所に住み、専門学校とウエイトリフティングだけに没頭する日々を過ごした。そして、59㎏級に上げて臨んだ94年世界選手権では、トータル287.5kgの自己最高記録で4位。ようやく、五輪のメダルが見えはじめた。
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