トリノで目撃した荒川静香の「超人的な冷静さ」と日本メディアの愚行 (2ページ目)

  • photo by Kyodo News

 五輪では、誰かがメダルを獲得すると"いい波"が代表チーム全体に波及する。それゆえ、大会4日目で「メダル本命」と目されていた加藤が6位に終わったことは、その後に出場を控えていた全日本人選手たちに動揺を与えたに違いない。

 来る日も来る日も表彰台に日の丸は揚がらず、「このまま日本はメダルなしに終わるのではないか......」という空気が漂いはじめた大会15日目。日本選手団を救ったのは、私が「銅メダル獲得」と予想していた、フィギュアスケート女子の荒川静香だった。

 10歳で3回転ジャンプをマスターした荒川は、16歳で1998年の長野五輪に出場。ソルトレイクシティ五輪出場は逃したものの、2004年3月には世界選手権を制して初の世界女王となった。しかし、その大会で「自分が満足する演技ができた」ことで目標を見失い、さらに、翌シーズンから採用された新たな採点基準への対応に苦しむことになる。

 それまで、演技の「芸術点」と「技術点」は審判の主観に委ねられていたが、ソルトレイクシティ五輪で審判に"圧力"がかかったことが問題視され、「技術点」に明確な基準が設けられた。技だけを見る技術判定員も導入され、ジャンプ、スピン、ステップ、スパイラルの4要素にレベル1からレベル4までの評価が与えられることになったのだ。

 荒川は、その4要素のうち最も高い得点が出せるジャンプに大技がないことに加え、ひとつの技の美しさよりも、連続技の正確さが重視される採点方法で思うような成績が残せずにいた。それでも2005年12月の全日本選手権で3位に入り、何とかトリノ五輪への出場は決めたが、すべての技のレベルを上げなければ本番で勝てないことは明らかだった。そこで荒川は、大きな賭けに出る決断をする。

 全日本の直後に、長らく指導を仰いできたタチアナ・タラソワから、氷上で直接指導するニコライ・モロゾフにコーチを変更したのだ。荒川は、目の前のモロゾフコーチの滑りを見ながら技を磨いていった。また、フリーの曲も世界選手権を制したときに使用していた『トゥーランドット』に変え、技術点の対象ではないために外していたレイバック・イナバウアーをフリーのプログラムで復活させた。

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