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本田武史が「不幸だった」と語るソルトレイクシティ五輪の中1日「メディアが一気に増えて...」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 能登 直●撮影 photo by Noto Sunao(a presto)

【「この選手のこの曲」が色濃かった時代】

ーー練習でジャンプに挑戦する楽しいスケートと、試合で緊張するスケート。そのふたつをワクワクしながらやっていたみたいですね。

 そうですね。それに当時だと、「この選手のこの曲」というハイライトがあったと思います。たとえば、ヤグディンの『ウインター』のトゥステップで滑っていく部分とか。プルシェンコも『マイケル・ジャクソン メドレー』や『トスカ』や『カルメン』もあった。

 今の選手たちは、「昨シーズン、何を滑っていたっけ?」というようなところがあるからもったいないなと思います。能力も高くて4回転もたくさん跳べるようになっているけど、この選手のこれがすごいと言うと......宇野昌磨の『トゥーランドット』や、羽生結弦の『SEIMEI』、ネイサン・チェンの『ロケットマン』は出てくるけど。昔に比べてあまり多くないのは、ちょっと寂しいなという感じはしますね。

ーー 一方で、6点制のリザルトを見ると技術点もプレゼンテーションも、今の感覚だとすごく狭い範囲で順番をつけている感じもしますが、納得はしていましたか。

 6点満点の時は一番滑走の選手が基準点になって、それより上か下かで始まっていくのでやっぱり難しかったですね。どこを高めればいいのかわからなかったし、本当に自分が6.0点から始まって減点されているかもわからない。9人のジャッジだと5対4で負けることもあるので、そのひとりで運命が変わる瞬間もある。

 正直、ロシア選手が失敗して6点近い点数が出ている時は、6.3点から始まっているんじゃないかなと思ったりもしました。ただ、そこに追いつくためにどうしたらいいかというのはすごく考えたし、6点満点を出してみたいと思っていました。プログラムも「自分にはこのプログラム」というようなすごさを出さないといけないなと。

ーーわからない正解を探す感じですね。

 だから2003年の四大陸選手権のフリーで6点を出した時は、シーズン最初に作ったプログラムで全然点数が出なかったので、全日本の直前に『リバーダンス』に変更していました。そういう意味では、音楽でも勝たなきゃいけないっていうところはありました。

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