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本田武史が「不幸だった」と語るソルトレイクシティ五輪の中1日「メディアが一気に増えて...」 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 能登 直●撮影 photo by Noto Sunao(a presto)

【まさかの得点にメディアが急増して...】

ーー4位になった2002年ソルトレイク五輪の時は、ものすごくワクワクしながらスケートやっている時代でした。

 長野五輪での失敗もあったので、ソルトレイク五輪の時は自分のなかでも対応ができて体も心も準備ができていた状態で、調子もすごくよかったです。でも、前年の世界選手権で5位だったというところで、表彰台争いにはギリギリ足りないかなという......。メダルを狙うのではなく、メダルに近づけたらいいなという気持ちで臨んだのがまずかったかなと思いますね。

ーーショートは4回転+3回転とトリプルアクセルを跳びノーミスで2位。技術点とプレゼンテーションはともに5.7点を出すジャッジも多かった。

 僕の前が優勝したヤグディンで、あとにプルシェンコとティモシー・ゲーブル選手(アメリカ)が残っていた。ジャッジとしても高い得点を出せず、ヤグディンのほうが上だから1個ずつ下で全員が2位をつけた。でも、プルシェンコが残っているので5.9点は残しておかなければいけないという状況でした。

 だからショート2位というのはまさかでした。あんなに点数が出ると思ってなくて。でもフリーまで中1日空いたことが不幸でした(笑)。

ーー不幸?

 ショート前には記者が3〜4人だったのに、ショート後にはテレビも含めてメディアが一気に増えてしまったんです。コーチはメダリストを何人も出してきた方だからできるだけガードしてくれたけど、選手村でも「男子フィギュア初メダルだ」という雰囲気になってきたので、その場にいるのもイヤでした。

 フリーで4回転トーループをステップアウトしてしまったのは本当につらかったですね。プルシェンコが上がってくるのはわかっていたので、「もう3位でいいや」という気持ちだったし、そのためにも4回転サルコウは跳ばずに、調子がいい4回転トーループ1本で行こうと決めた。フリーは練習からほとんどミスがなかったし、「行くしかない。勝負をかけよう」という時に、少し守りに入ってトーループを失敗。そのあとは、もう焦りしかなかったです。

ーーそのあとの世界選手権では後半にも4回転トーループを入れていましたが、そのくらいの攻めの気持ちがあれば結果は変わったかもしれませんね。

 2位になったティモシー・ゲーブル選手がよかったのと、僕の滑走順が最終組の1番だったのもよくなかったですね。あとに5人残っているから点数は絶対抑えられる。だから失敗したところで、メダルはもうないだろうなと思っていました。

 それでも楽しかったですよ。メダルが獲れなかった悔しさはもちろん引きずったけど、それまではメダル候補でもなかった。ショート2位でメダル候補になったものの、もともと4番手、5番手だったので、4位に入れたのはよかったかなと。そう考えて、長野の世界選手権でリベンジしようと切り替えができました。

(文中一部敬称略)

後編につづく

<プロフィール>
本田武史 ほんだ・たけし/1981年、福島県生まれ。現役時代は全日本選手権優勝6回。長野五輪、ソルトレイクシティ五輪出場。2002年、2003年世界選手権3位。現在はプロフィギュアスケーターとしてアイスショーに出演するかたわら、コーチや解説者として活動している。

著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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