荒川静香のトリノ五輪の快挙から15年。「金メダルを取るには?」の答え (2ページ目)
海外メディアに「クール・ビューティー」と呼ばれたのは、その落ち着きがゆえんだろうか。本人は「別にクールに装っているわけではない。逆に"そんなにクールに見えますか?"と聞きたいですね(笑)」と語っていただけに、不本意な異名だったかもしれない。しかし心のざわめきを見せずに氷の上に立てることは、競技者として大きな利点だ。
あれから15年、フィギュアスケート界に打ち立てた金字塔の再現をーー。
荒川は、冷淡というより豪胆だったのかもしれない。
2005年12月、トリノ五輪の前に開かれた全日本選手権後、荒川はタチアナ・タラソワからモロゾフにコーチを変更している。そして2006年1月にはフリーの曲目を『幻想即興曲』から『トゥーランドット』に変え、2月に入って五輪まで10日を切った段階で、SPも『パガニーニの主題による狂詩曲』から『幻想即興曲』に変更届を出した。
「(フリーは)魅せられるプログラムに、ということを考えて滑りやすさで。(SPは)曲のつなぎを考え、最初のジャンプが飛びにくかったから変えました。フリーで使っていた曲だし、演技の構成は変えていないので、何の問題もありません」
荒川は淡々と語っていた。しかし、大会前でこれだけの変更をやってのけられるのは、人並外れた果断さだ。
懸案のSPは、曲に馴染んでいた。ノーミスの安定した演技で66.02点。3位で滑り終え、メダルの目算が立った。
フリーも6分間練習から、荒川だけが達観していた。1位で迎えたコーエンのほうが緊張で硬さが見え、案の定、冒頭のルッツ、フリップと大きく乱れてしまった。荒川は騒然とした中、入れ替わりでリンクに上がったが、泰然と気品すら漂わせていた。
「シーちゃん!頑張って!」
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