【プロレス】藤原喜明が明かす新日本プロレスに入門した理由 それ以前は会社員やコック、冷凍マグロの解体も経験 (3ページ目)
退社した藤原が転職したのは調理師。勤めた店は、東京・神田にあった喫茶店だった。
「会社を辞めた時に、『飯を腹いっぱい食うにはどうすればいいかな』と思って、コックになったんだ。早く料理を覚えたかったら、誰よりも早く店に行ってキャベツの千切りをやったり、先輩が作る料理の味つけを見て覚えたりしてな。それをメモして、試しに店で作ったりしてたよ。そうやって、毎日必死にやっていると味を覚えていくんだな。その店の味を全部覚えたら、ほかの店に移って新しい味を学んでいったんだ」
夜は、麻雀の店の客に料理を提供する仕事もしたという。6、7店ぐらいを転々としたが、その理由は「味を覚えたから」だけではなかった。
「料理店にはチーフがいて、二番手、三番手がいる。でも、その下にいる人間で生意気なことを言ってくるヤツがいるんだよ。料理のことで叱られるなら我慢できるけど、そうじゃないことで文句言われると、『なんだこの野郎!』ってケンカになるんだな。そんなことで辞めたこともあったよ」
そんな料理修業中もトレーニングは続けていた。新橋のジムに入会し、肉体を鍛えていたという。
「昼と夜の仕事の間に3、4時間くらい休みがあったから、その時にジムへ行ってたよ。思い出すのは、ジムのテレビで(1970年11月25日に)三島由紀夫さんが自殺したニュースを見たことかな」
【ジムの会長との縁でプロレスの道へ】
洋食から和食まで、さまざまな調理を学んだ藤原は、横浜市内の中央卸売市場で働くことを決める。
「魚の勉強をしようと思って、『菊平』っていうマグロ専門店で働いたんだ。市場での仕事は冷凍マグロの解体。ハンマーで半身を切るんだけど、なかなかの力仕事だったな。汗が噴き出るから冬でもほぼ裸だったよ。市場には魚が落っこちてるから、2、3尾拾って帰って、アパートで魚をさばく練習をしたよ」
その仕事を始めてから、横浜駅前の「スカイ・ボディビル・ジム」に入会したが、そこで運命を左右する出会いがあった。その人物は、ジムの経営と指導を行なっていた金子武雄。金子は、重量挙げの全日本王者の肩書を引っ提げ、力道山が設立した「日本プロレス」で活躍した元プロレスラーだった。
「会長が偶然にも元プロレスラーの金子さんだったんだ。だから、ジムにはマットが敷いてあって、寝技の練習もやるようになってな。金子さんが寝技を教えていたジム生のなかでは俺が一番若かったけど、半年も練習したら一番強くなってたよ」
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