日本ボクシング世界王者列伝:鬼塚勝也 徹底的な自己表現とストイックさで人生を走り続ける「スパンキーK」 (2ページ目)
【少年時代から重ねたストイックな日々】
鬼塚が「世界チャンピオンになる」と決意したのは小学生のときだった。それまでは、ただのやんちゃ坊主だったのが、その決意とともに一変したという。はや、体力強化、節制の準備を始めたのだろう。動作所作まで別人のようになったという。「そういう人だから、世界一になったのかもしれません」。その変身ぶりを実地に見てきた人は、いまさらながら感心したと言いたげだった。
世界の最高地点を目指したからこそ、貫き通したのは勝利へのこだわりだった。高校3年生のインターハイは優勝候補として臨んだ。1年前のタイトル獲得時から、プロ垂涎の存在でもあった。だが、準決勝、こちらものちの世界チャンピオン、川島郭志(徳島・海南高校)に大差の判定負けを喫した。鬼塚の攻防は、川島の巧みな試合運びに、ずっと空回りしていた記憶がある。
翌日、決勝戦を前に、体育館の廊下で鬼塚に出会った。「残念だったね」と声をかけると、苦々しく顔を歪め、ぷいと背を向けて歩き去った。よほど、悔しかったのだろう。二度とこんな気持ちになりたくない。その思いが、勝利への執念により結びついた。
プロになってからの鬼塚の戦いから伝わってくるのは、一刻一秒たりとも打ち負けたくないという激しい闘志だった。周囲から「安易な闘い」と見られることも嫌った。被弾が少ない選手ではなかったが、打たれるごと、手数を倍加させて反撃に移る。その勢いは終盤戦になっても褪せることはない。圧倒的なスタミナとともにパンチを打ち続けた。
それができるだけの練習量があった。延々と重ねたストイックな日々があった。常に『自分の限界を越えてやる』という思いがあった。さらに、決してくじけることのない決意があった。
マネージャーが片岡鶴太郎ということで話題性を作り、目立つファッションも好んだ。しかし、それも鬼塚勝也というボクサーのただの一側面にしか過ぎない。自分に厳しい男だった。
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