佐竹雅昭がサム・グレコ戦で自覚した「脳へのダメージ」の蓄積 その後のキモ戦は「キャリアのピーク」 (2ページ目)
【体のダメージを自覚するなか、UFCで名を馳せたキモと対戦】
それでも、当時は無我夢中でリングに上がっていた。
「大山倍達先生に憧れ、梶原一騎先生の『空手バカ一代』の世界を現実にする夢を追いかけていましたから、必死に闘っていましたし、『1度でもいいからK-1のチャンピオンになってやろう』と気力で闘っていました。
思えば、僕は中学の卒業文集で同級生たちがメッセージを書くページに、(江戸時代の書物である)『葉隠(はがくれ)』の一説『武士道とは死ぬことと見つけたり』と書いていたんです。この言葉は大山先生の本に出てくる言葉だったんですが、『これが俺の生きる道だ!』と感動して卒業文集に書いた。ほかの同級生は『みんな、ありがとう!』『3年間、楽しかったよ』などと書いていたので、中学では浮いていましたよ(笑)。
ただ、空手を志した中学の時から常にそういう気持ちを持っていたから、空手からキック、リングス、K-1と舞台を変えるなかで、周りから何を言われようが、笑われようがチャレンジを続けることができました。そんな精神で闘ってきたのですが......さすがにこのグレコ戦で記憶が完全に飛んだことで、ダメージの蓄積を自覚しましたね」
ダメージの自覚は、命の危険を意味する。それでも容赦なく試合は組まれた。
年が明けた1995年3月3日、第3回K-1グランプリの開幕戦が日本武道館で開催された。佐竹はそのメインイベントで、相手はアメリカの総合格闘家のキモ。アーツ、ホースト、グレコ、アンディ・フグら外国人スターが台頭してもメインは佐竹だった。
脳のダメージへの不安を抱えながらも、主役を托された佐竹はプロとしてリングに上がった。
対戦相手のキモは当時、総合格闘技界で注目を集めていた存在だった。前年の1994年9月に行なわれた第3回「UFC」の1回戦で、大会を2連覇していたブラジルの柔術家、ホイス・グレイシーと対戦。敗れはしたが、ホイスが準決勝を棄権するダメージを負わせたことで名を馳せた。また、K-1には同年の12月10日の名古屋レインボーホール大会で初参戦し、総合ルールの無制限一本勝負でパトリック・スミスをTKOで破った。
そんな、勢いに乗るキモとのK-1グランプリ1回戦で、佐竹はそれまでのトランクスではなく、純白の空手着を身にまとって闘った。
「キモはUFCのファイターだから、道着を着て違いをわかりやすくするのはどうか、となったので。もともと空手家ですから、トランクスで闘うほうが違和感があったので問題はありませんでした」
2 / 4