日本ボクシング世界王者列伝:ロイヤル小林 歴史に残る「世界の拳豪」たちと相まみえたナチュラルエリートの左フックの記憶 (2ページ目)
【史上有数の左フックを2度も浴びた】
18戦全勝16KOの小林を世界のトップ戦線で待ち受けていたのは、あまりに厚い壁だった。1975年10月、初めての世界王座への挑戦は、WBA世界フェザー級チャンピオン、アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)との戦いだった。ずば抜けた技巧派にして、スリムな長身から繰り出すパンチはとびきり鋭い。そのうえ、きわめて端整なマスクの持ち主で、スーパースターの香りが匂い立った。
ただし、この時点でアルゲリョは本場アメリカでは2試合だけしか戦っていなかった。スターダムの入り口付近に立っていたに過ぎない。まだまだ未完。チャンスはあると思い込んだのは、甘い予測だった。アルゲリョはすでにとてつもなく強かったのだ。
伸びのいいジャブ、右ストレートの前に、小林は打つ手がない。荒々しい突進も楽々といなされる。5ラウンド、右ストレートでひるんだところにワンツーから右アッパーを浴びて倒される。辛くも立ち上がるが、連打を集中され、最後は脇腹に突き刺さった左フック。腹を抱えて倒れ込んだ小林は、そのままカウントアウトされる。
「(最後の一撃は)胃まで届いたんじゃないかというくらい痛かった」(小林)
1年後、新設されたばかりのジュニアフェザー級(現スーパーバンタム級)に体重を落とし、WBCチャンピオンのリゴベルト・リアスコ(パナマ)に挑む。減量に苦しんだ小林はベストの状態とは言い難かったが、それでもパワーでリアスコを圧倒。8回KO勝ちでタイトルを奪取する。
しかし、冒頭のようにわずか1カ月半後、敵地・韓国のリングで廉東均(ヨム・ドンギュン)に敗れて無冠になった。初回にスリップ気味のダウンを喫し、その後は逃げまくる挑戦者を追いかけきれずに僅差での判定負けを喫した。「もう少し条件を上げれば、日本開催も可能だった。そうすれば、負けはなかった」と悔し紛れの愚痴が周辺に広がったが、すべてはあとの祭りだった。
廉を逆転KOで破ってWBCチャンピオンになったウィルフレド・ゴメス(プエルトリコ)に挑んだのは1978年1月だった。今度は減量もうまくいってベストの状態に仕上がった。1974年のアマチュア世界選手権に17歳で出場して全試合KO勝利で優勝を飾ったゴメスは天才と呼ばれた。小林と戦ったころは、まだ頼りない一面も見えたのだが、これまたとんでもない怪物だった。
滑らかな攻防技術に、小林の攻めはがむしゃらにしか映らなかった。カリビアンの小さなステップ、体のしなりにすべてのパンチが空転させられた。さらに3ラウンド、罠が仕掛けられた。
「打っても、打っても、当たらない。あのときだけ、一瞬、(ゴメスの)ガードが下がったように見えた」(小林)
次の瞬間、小林の視界は漆黒に塗りたくられる。左フックのカウンターを食らったのだ。試合は実質的にここで終わった。顔面からキャンバスに突っ伏した小林はふらふらになって立ちあがり、レフェリーはあと2度倒れるまで、戦闘を続けさせたが、あまりに残酷な続編に思えた。
1979年1月、小林はWBA世界フェザー級チャンピオン、エウセビオ・ペドロサ(パナマ)に挑むが、長身ながらも接近戦がうまいチャンピオンの前に一方的に打ちまくられ、13ラウンド終了で棄権した。
30代になった小林はなおも現役を続けた。若い頃の迫力はだんだんと失われたが、左フックを軸に置くコンビネーションブローは完成度を高めていた。ただし、5度目の世界挑戦のチャンスはついに訪れず、32歳で引退を決意した。
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