引退の齋藤彰俊が語る「記憶に残る3試合」1試合目の小林邦昭戦で感じた本物のプロレスラーの「強さ」 (2ページ目)
【「収まりがつかない」友人の代わりに小林と対戦】
それほどの衝撃を味わった一戦が実現したのは、ささいな出来事がきっかけだった。1991年12月8日に、後楽園ホールで「誠心会館」の自主興行が行なわれた。それに参戦した小林が、控室のドアを閉め忘れた誠心会館の道場生を注意。小林はその道場生の反応を"口答え"と判断して顔面を殴打した。制裁を加えられた道場生は、齋藤と中京高校時代からの親友だった。
「殴られた張本人から電話がかかってきて、『仕返しにいこうと思う』と聞きました。事の経緯、詳細は聞かなかったんですが、彼は興奮してとにかく『どうしても収まりがつかない』という言葉を繰り返していました」
そして8日後の12月16日、新日本の大阪府立体育会館大会で会場入りする小林を襲撃する。小林は負傷して当日の試合を欠場せざるを得ず、仕返しは成功した。ただ、ここに齋藤は加わっていなかった。
「最初はドアを閉めた、閉めないというささいな出来事だったのに、事が大きくなってしまって。ただ、彼(小林から制裁を受けた道場生)は会社員をやっていて、それ以上は踏み込めなくなってしまったんです。自分はその時、W★INGを離れていてフリーだったので、『だったら彼の代わりに自分が出ていこう』と決めました」
ただ、無名だった齋藤がトップレスラーの小林と対戦することは、新日本側にはなんのメリットもなかった。斎藤のもとに、新日本のフロントから電話がかかってきたという。
「その時、『6万人の前で挑戦状を読むぐらいの根性があるなら、挑戦を受けてやってもいいぞ』と言われました」
新日本が指定したのは1992年1月4日の東京ドーム大会での挑戦表明だった。齋藤は「わかりました」と即答。迎えた大会当日、6万人の大観衆が埋め尽くした東京ドームのリングに上がり、自らしたためた挑戦状を読み上げて小林戦が電撃的に決定した。リングに上がった時には、新日本ファンからのすさまじいブーイングを浴びた。
「ブーイングを浴びながらドームのリングに上がったんですが、その時は同級生の敵討ちの思いと怒りに満ちていたので、『6万人全員が俺の敵だ』と感じました。あのブーイングで『この試合は冷静にやったら戦えない』と覚悟しました」
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