アントニオ猪木を全日本の試合会場に誘った柴田惣一 ジャイアント馬場がひとり、張り詰めた緊張感のなかリング上で待っていた

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(2)

(連載1:猪木とフレアーの禁断ツーショット、三沢光晴の結婚スクープ......東スポ時代の柴田惣一が見た昭和プロレスの裏側>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。前回に続いて、アントニオ猪木と引き合わせた大物レスラーたち、レスラーたちの呼び名の誕生秘話などについても語ってもらった。

全日本の試合会場で話をするジャイアント馬場(左)とアントニオ猪木  photo by 東京スポーツ/アフロ全日本の試合会場で話をするジャイアント馬場(左)とアントニオ猪木  photo by 東京スポーツ/アフロこの記事に関連する写真を見る

【猪木と馬場が、全日本のリングで雑談】

――今回取り上げるのはどういったお話ですか?

「僕、アントニオ猪木さんを全日本プロレスの会場に連れて行ったことがあるんですが、その話にしましょうか。昨今のような、団体間の交流が当たり前ではなかった頃ですね」

――大事件じゃないですか!それはどういう経緯で?

「1984年4月4日、場所は岡山武道館。メインイベントは、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田が持つインターナショナルタッグ王座に、スタン・ハンセン&ロン・バス組が挑戦した試合でした。いつも通り早めに開催地に到着して、岡山駅で『飯でも食うか』とお店を探していたら、なんと猪木さんがいたんです」

――なぜ猪木さんが岡山に?

「かつて、ブラジル政府をはじめ世界を巻き込んだ『アントン・ハイセル』というプロジェクトがあって。ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかす(バガス)を有効活用する方策として考え出された事業です。

 当時のブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、猪木さんが手掛けた事業はバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けでした。『世界中のエネルギー問題や食糧問題が解決する』と猪木さんが立ち上げた生涯最大の事業で、今でも継続しているはずですよ」

――バイオ燃料は今でこそ当たり前になっていますが、1980年代だと早すぎませんか?

「何しろ、猪木さんには先見の明がありましたから。インターネットにしろ、タバスコにしろ、何でも早すぎましたが、これもそうでした。あの頃、バイオテクノロジーを研究していた林原生物化学研究所(現ナガセヴィータ)が岡山駅の近くにあったんです。そこを猪木さんが訪問していたんですよ。

 それで僕が『猪木さん、何をしているんですか?』と声をかけた。猪木さんはすでに用事を済ませたようで、『この後はオフだ』と。そこで『全日本プロレスの岡山大会があるので、一緒にいきましょう』と誘ったんです」

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