佐山聡が反則連発の「実験」 キックボクシングの試合で敗戦もアントニオ猪木は「よくやった」と褒めたたえた (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【「本当にガッカリした」メキシコ行き】

 師匠の言葉に勇気をもらい、新日本の「格闘技部門の第一号選手」になるべく格闘技の技術を磨いた佐山だったが、思いとは正反対の修業を命じられることになる。デビューから2年が経過した1978年6月に、メキシコへの遠征を指示されたのだ。

「ルチャ・リブレ」と呼ばれるメキシコのプロレスは覆面レスラーが主流で、試合は空中殺法を軸に展開される。言わば「格闘技」とは真逆の「プロレス」独特の世界だった。

「表現は悪いんですが、僕の中でメキシコ行きは"島流し"だと思いました。これは、本当にガッカリしましたね」

 このメキシコ行きは、事実上、佐山を「格闘技部門の第一号」にするという約束が消えたことを意味していた。同時に、日本を離れたことで猪木さんとの距離も当然のように遠くなった。

 失意のメキシコ行きだったが、類まれなる運動神経とプロレスセンスを持つ佐山は、メキシコで「練習はしませんでしたけど、見様見真似で」難易度の高い空中殺法をいとも簡単にリングで表現。「ルチャ・リブレ」の世界でも人気を獲得した。

 そして1980年にはイギリスに拠点を移し、リングネームも「サミー・リー」と変え、トップレスラーに君臨した。

「ずっと、イギリスで試合をやっていきたいと思っていた」

 そう考えていた佐山の元に、1981年4月、日本から"帰国指令"が届いた。内容は、覆面レスラーの「タイガーマスク」への変身。何度も拒否したが、専務取締役を務めていた新間寿氏の説得に折れ、「タイガーマスク」として帰国することを決断する。

1981年4月23日、蔵前国技館で虎の覆面をかぶった佐山は、ダイナマイト・キッドと対戦してジャーマンスープレックスホールドで勝利する。鮮烈なデビュー戦によって、人気は瞬く間に日本全国に広まった。

 そんな空前のタイガーマスクブームの渦中で、佐山が意識していたのは「アントニオ猪木」の視線だった。

(連載5:猪木の苦境にタイガーマスク時代の佐山聡が抱いた思いと貫いた「ストロングスタイル」>>)

【プロフィール】

佐山聡(さやま・さとる)

1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。

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