「死ぬんじゃないか」と心配されたジャイアント馬場がハンセン相手に躍動。実況アナも「やれ! 馬場」と叫んだ

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 木村盛綱/アフロ

全日本プロレス50周年
実況アナウンサー・倉持隆夫が語る記憶に残る名勝負(3)

(第2回:全日本の控室から「あっ! ハンセンだ!」。サプライズ登場の瞬間、実況の倉持隆夫アナは嘘をついた>>)

 ジャイアント馬場が1972年10月22日、東京・両国の日大講堂で旗揚げした全日本プロレスが50周年を迎える。さまざまな激闘を放送した「全日本プロレス中継」で、長らく実況を務めた倉持隆夫アナウンサーが語る記憶に残る名勝負。倉持が最後の3試合目に挙げたのは、1982年2月4日、東京体育館で行なわれたジャイアント馬場vsスタン・ハンセンの初シングルマッチだ。

全日本に参戦したハンセン(左)を迎え撃った馬場全日本に参戦したハンセン(左)を迎え撃った馬場この記事に関連する写真を見る 前回の記事でも紹介したが、ハンセンはジャイアント馬場に引き抜かれ、1981年12月13日の蔵前国技館での「世界最強タッグ決定リーグ」最終戦に乱入。そして翌1982年1月15日に千葉・木更津倉形スポーツ会館で行なわれた、「新春ジャイアントシリーズ」第11戦から全日本に本格参戦した。そして、同シリーズ最終戦となる2月4日、東京体育館で馬場が持つPWFヘビー級王座に挑戦した。

 当時44歳の馬場と32歳のハンセン。日本プロレス時代は絶対的なエースとして躍動した馬場だったが、全日本を旗揚げ後、特に40歳を過ぎると動きが鈍っていった。一方のハンセンは"ブレーキの壊れたダンプカー"と称され、192cm・140kgの巨体をフル稼働させる猪突猛進のパワーファイトでリングを席巻。初の一騎打ちを前に、ファンの間で「馬場は死ぬんじゃないか」と本気で心配の声が上がるほどだった。

 その思いは倉持も実は同じだった。

「この頃の馬場さんは明らかに動きが落ちていましたから、正直、あのハンセンのパワーに耐えることができるのかと不安に思っていました」

 そんな馬場の衰えを、倉持は実況で表現したことがあった。

「どの試合かは覚えていませんが、馬場さんの試合で『動きが限界に近いですね』などと言ってしまったんです」

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